短編小説

□たとえば
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過去の出来事を無かった事にするのは難しい。
例えば、歴史的な事件やなにかについては。

けれど、一個人に起こった出来事を無かった事にするのは、案外簡単なことなのだ。



忘れてしまえば、いいのだから。









「……じゃあ、なにか? 君は忘れてしまった事は、全部無かった事になるって言うのかい?」
「そうだね。少なくとも、忘れてしまった本人にとっては」

夕日が、図書室の中を赤く染めていた。並べられた机や本棚が、黒く長い影を落とす。カーテンがはためいて、ぬるい風が彼の男性にしては少し長めの髪を揺らした。

納得いかないという私の表情に気付いたのか、彼はうっそりと笑みを浮かべた。

「………そう、たとえばね」

彼の視線が、何かを考えるようにゆらりと宙をさまよう。右手を口許に添え、長い指が唇を軽く擦るように動いた。古びた木製の椅子がギシリと軋んだ音をたてる。

開いた窓からは運動部の掛け声と、吹奏楽部の合奏が微かに聞こえた。それも、窓を閉めれば聞こえなくなるのだろう。全ての音は遠く、この図書室は他の一切から隔絶されているように思われた。

「………たとえば、貴方が散歩の途中に見知らぬ人に道を聞かれたとするよね? それで親切に貴方は道を案内した。けれどその人と別れた少し後、転んで頭を打ったかそれとも事故にでもあったのか……貴方はその前後の記憶、つまり道案内した人間の記憶を無くしてしまう。

…………その場合、貴方はその人に会ったのかな?」

「…………は? え、どういう意味だい?」

彼は穏やかに色素の薄い目を細めた。微笑んでいるのか、そうではないのか、判断はつきかねた。ただ夕日が眩しかっただけかも知れない。

「仮に貴方が後日その人に会う事があったとしても、貴方はその人を知らない。だって、忘れているのだから。
その場合にね、貴方は、貴方個人の主観としてその人に会った事があるという真実はない。客観的には事実としてあったとしても、思い出さない限りは………でももし一生思い出さなかったら?」

「…………思い出さなければ、私個人にとってはその人とは会わなかった事になると?」

「そういうこと」

彼は満足気に頷いた。
いつの間にか随分影が伸びて床を覆っていた。そろそろ図書室を閉める時間だろう。

……………そんな事よりも


「…………………つまり君の持論で言えば、君がいつまで経っても提出しない進路希望調査用紙も、存在しなかったことになると?」

件のプリントを指で摘んで示し、苛立ちを抑えて問掛ければ、彼は涼しい顔でぬけぬけと宣った。

「うん、そういう事になるかもしれないね。すみません先生、僕はその用紙の存在を全く知りませんでした」










「そんなわけあるか!!!」











(こうなったら意地でも思い出させてやる!)
(痛っ! 先生、本は人を殴る物じゃあありませんよ…………というか最早人格が違っ………!?)
(うるさい! 君こそこういう時だけ敬語になるな!!)








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しょーもないオチですみません(汗)
楽しんで頂ければ幸いです。

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