ワヤスミ本家

□アリエナクナイ
1ページ/9ページ

実家に居るのは三が日が限界だ。そろそろ恋人とも会いたい。
取り敢えず眠る前のメールを打とうとケータイを取ると、待っていたかの様に着信が鳴り出した。
「伊角さん?!」
彼がこんな深夜に連絡してくるのは、殆ど有り得ないといって良い。
「どうしたの?!」
挨拶も無しに聞いてしまった。
「……」
返事がない。聞こえるのは雑踏の空気と、小さな息の音だ。
「伊角さん?」
何度か呼びかけると
「…たすけて」
聞き取りづらい言葉が返る。
「は?」
「…たすけて、わや…」
かすれた声が、和谷の頭に緊急警報を鳴らした。
「ちょ…どうしたの伊角さんっ?!どこに居るの今っ!!」
また長い間があり、微かに伊角の家の最寄り駅を告げるアナウンスが聞こえた。
「いま…さっきのんでて」
携帯越しの伊角の声が遠い。
「たくさん飲んだのっ?」
「…えへへ」
この笑いで和谷は全てを理解した。
「伊角さん、」
「おれ、おめでとうっていっぱい言われたよ」
「うんうん、分かったから、」
「だから寂しくなっちゃって」
意味不明な言動の伊角に半分戸惑いつつ、
「今からそこ行くからっ、待っててよ?!動かないでよ?!」
と告げ、和谷は自室を飛び出した。


終電にはギリギリの時間だ。
家を出る時に母親が何か言うのが聞こえたが、玄関でダウンを掴むのが精一杯だった。
「ちくしょっ、何で出ねーんだよ伊角さんっ」
電車待ちに何度も携帯にかける。コール音はすぐに無機質な留守電に切り替わった。勿論メールに返信は来ない。
下りの客車の酒臭さと車窓のネオンに焦りを増幅させられ、和谷は口唇を噛んだ。
乗り換え電車は目の前で扉が閉まり、
「くそっ」
走って階段を上がった息も荒いまま、汚い言葉も出る。
更に恐ろしい事に、リダイアルすると今度はコール音さえ鳴らなかった。
「マジかよ…」
『助けて』という伊角の声が耳に蘇る。
そう言えば酒を相当飲んだらしい事以外、状況が全く分からないのだ。あの電話を切らずにいればと気が急くのは、彼が年上で庇護など必要としない青年である事を取り払っても、酔った様子を自分が知らないからだと気付く。
歳の差を辛く思う事は多々あったが、今回ほど危機迫った事はなかった。
「どこだよ…っ」
着いた駅のホームの隅々、トイレも確認したが、姿はない。
ここで見つからなかったら、と背筋を寒くしながら改札を出ると、とうに閉まったキヨスクの横に彼はいた。
これまでの人生において和谷が死体を見た事はない。祖々の葬式で見たのは、遺体である。
しかし今、死体を見ていると和谷は思った。
「伊角さん…」
青ざめて横たわる身体が、ぴくりとも動かない。
「伊角さんっ!!」
冗談だろうと肩を揺さぶる手に、力が入らない。自分が直面している事実の理解を、頭が拒否した。
しかし数分も名前を呼んで胸に抱いていれば、分厚いコート越しでも小さな呼吸は分かる。
「…。伊角さん…?」
薄い瞼が反応する。髪は乱れ、体温は低い。
死んではいないが、危ない状態には違いなかった。
こんな風に路上で寒さも酔いに任せて寝ている人間を放置しておく都会に、一瞬行き場のない憤りを感じた和谷だったが、それは兎も角恋人を何とかしなければならない。
「きゅ、救急車っ、呼ばなきゃ」
焦る手で数字を押そうとして、混乱でその番号をどちらかと惑う。
「…わや…」
ふと、腕の中の人が口唇を開いた。
「伊角さんっ、大丈夫っ?!」
その様子を見ると、放置されても危ない輩に誘拐されなかっただけ良かったと安堵する。
「…らいじょぶ」
日頃優等生然としている伊角慎一郎の見る影もない。和谷の初めて見る姿だった。
次へ

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ