ワヤスミ本家

□チョコレイトデイ
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「和谷、ほら」
帰宅した伊角は、ソファでくつろいでいる和谷に箱を投げた。
「っと。……チョコレート?」
キャッチすると、至ってスタンダードな日本製板チョコの赤い箱。
「……バレンタイン。来週出張でいないから、は……早めに」
「……っ、伊角さんっ!」
もうもう、大好きだ。記念日を(故意に)忘れたり(本当に)忘れたりかと思うと、たまにこんなサプライズも来る。
和谷はコートを脱いでいる途中の伊角に飛びかかった。
「わ……っ、」
「大好きーっ! 大好き伊角さん!」
「ひ……昼飯の時にちょっと目に入ったから……っ」
言い訳をする伊角の頬をはさんで、和谷は唇を寄せた。
「ちゅーっ」
ふざけ気味にキスすると、年上の恋人は腰が引けながらも無下にはしない。調子に乗って、深くする。
「ん……」
ぴくんと震える肩がかわいい。
臆病な舌に絡めると、止める様に手が腕にかかった。
「わ、や……っ」
「なに……?」
「……んっ、風呂……」
「入る? 一緒に?」
「っ、ばか!」
「いいじゃんたまにはー」
「却下」
「伊角さんてばあっ!」
逃げられてしまった和谷は、ふくれながらも大してこたえてはいない。伊角の拒否など想定の範囲内だ。
バスタブに湯を落とす音が聞こえてきて、伊角が浴室から叫んで訊く。
「和谷、先に入るか?」
さっきのキスなど忘れたかの様な声が憎くて、和谷はもらった板チョコを開けた。
「いー。伊角さん先に入って!」
これも想定の範囲内。
銀紙を破って噛むと、冷たいチョコはばりんと割れる。
伊角が風呂の支度をして脱衣場の扉を閉めるまでは、和谷はぼーっと歌番組を観ていた。その後数分は、そわそわと待って。
「……行きますか」
和谷は食べかけのチョコを置いて、脱衣場にそっと足を踏み入れる。手早く身支度をして、いざ鎌倉、ていうか浴室。
「しつれーしまっす!」
シャンプーを流した濡れ髪の伊角が、瞠目して和谷を見た。
「おい、和谷……っ」
「お背中流して差し上げまーっすっ」
「い、いらない、狭いからお前、」
「まーいいからいいから!」
泡のついたナイロンタオル(何故かスポンジではない)を伊角からもぎとり、和谷は背中に回った。
「全く……」
警戒しているだろう伊角が、あえてそれっぽい感じを見せない様に背筋を伸ばす。
無駄な抵抗だなあ、と和谷は内心苦笑しながら、タオルを動かした。この背中がたわむ所を、もう幾度でも知っているのに。
「力加減はいかがっすかー?」
「ん、いいよ」
ままごとの様な、遠い前戯の様な。
きっと、このまま抱きついてもなだれ込めるだろうけれど。
「……和谷、俺も流してやるよ」
「うん!」
「えーとスポンジの方が……?」
「これでいいよ」
伊角の背中を泡だらけにしたタオルを渡す。
同じタオルで身体を洗うということには、何となく『他人』と一線を画する感じがする。気持ち良く背中を流してもらいながら、和谷は鼻唄を歌った。さっきの歌番組でアイドルが歌っていた、ヒット曲だ。
「ご機嫌だな」
「気持ちいーんだもん。癒されるって感じ」
「このくらいで癒されるなら、お安いご用だ」
「ほんとー?」
じゃあいつも伊角さんに背中流してもらおうかな。和谷のずうずうしい要望に、伊角は頭をはたいた。
「いたっ」
「調子に乗るな」
本当はそうしてやりたいのは山々だけれど、それではケジメがつかない。きっと自分も。
「もー伊角さんの暴力夫ー」
「夫なのか」
「じゃあ妻」
また和谷は頭をはたかれた。大げさに痛がると、お湯を頭からかけられて、今度はシャンプーされた。
「んーっ、痛い、目に入るーっ」
「つぶってろ、ほら、良い子だから」
まるで大型犬を世話している感じがする。和谷が子供の頃、風呂で洗ってやったのとは勝手が違う。
あの小さかったものと同一人物とは思えない。
「流すぞ」
「ん、いーよ、後自分でする」
和谷は、勝手な伊角の感慨を知らない。がしがしと流して、リンスをするか一瞬迷って、しないことにした。
どうせまた数時間後に入るのだし。
「……入って、いい?」
バスタブにつかった伊角を見下ろす。成人男子が二人入るには膝を曲げなければならない。
伊角は既に曲げていた。針ネズミの様に背を丸くして、何かを守る様にしている。
「……どうぞ」
ここまできて、入るなという訳にもいかない。お湯が溢れて流れ落ちるのがもったいないなあと、頭の片隅で思いながら。
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