ワヤスミ本家

□きまぐれラヴァー
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 分かってるけど、付き合い長いし分かってるけどさ……あんたがそういう人だって。でも。




「じゃあ行ってくる」
「ほあい」
 狭い玄関で、スーツ姿の伊角は向き直った。同居人は歯ブラシをくわえて、まだTシャツと下着の状態だ。
「……和谷」
「はに?」
 特に何かある日でもない。
 伊角はこれから仕事で、このドアを出たら背中で鍵がかかる音を聞いて、駅に向かう。それから休日の和谷は歯磨きを終わらせて、適当に時間を潰してから多分友人の家にでも打ちに行く。
「……その、あー、ええと」
 言葉ひとつで、彼のその一日を少しでも気持ち良くできるだろうか。
「……どしたの」
 口の周りにミントの泡をつけた和谷がまじまじと見る。
 段差で少し高い所からの視線に、伊角は余計に声が喉に詰まった。
「っ……」
 言わないと。欲しいと思われている間に。
 でも横窓からの朝の光が邪魔だ。こんなに健康的に明るくて、まっすぐ見つめられては恥ずかしくて言えない。
「あれ。あ、ハイハイ」
 伊角が躊躇している間に、年下の恋人は一人合点して、
「いってらっしゃい☆」
「!」
伊角の口唇に歯磨き粉の匂いをすりつけた。
「ばっ……」
「え、いってらっしゃいのきすが欲しいんじゃなかったの」
「違う!」
 逆だ。自分から言おうと思っていたのにこれじゃ、今更。
「なんだ、じゃあ何?」
「……何でも、ない。行ってきますっ」
「え、伊角さんっ?」
 アパートを飛び出した伊角は、駅前に出るまでに決めた。今夜こそは、ちゃんと言う。






 けれど、タイミングというものがある。伊角はピーナッツを口の中でふやかしてしまうぐらい考えた。
 和谷はどうしてあんなに自分をドキッとさせる瞬間を図って言えるのだろう。あれは、もういっそ、才能だと言っていい。
「伊角さんだいじょぶ?」
 焦点の合わない恋人の目の前に手を振って、和谷はアルミ缶を取り上げた。ビール2缶で既に怪しい。
 テレビは天気予報からスポーツニュースに変わった。
「俺も飲むし、ウーロン茶持ってくるね」
「和谷」
「ん?」
 立ち上がって小さな台所に向かうカーゴパンツを、伊角は引いた。
 今日までかかってしまったのは、ひとえにタイミングの難しさだ。
 今言わないと、眠気に負けてしまう。日付も変わる。今日こそ言うと決めたのに。
「……すきだ」
「は?」
「だいすきだ!」
 酒の力を借りないと言ってやれないとは、情けない。見上げると和谷は呆気にとられた顔をしているので、何だか涙まで滲む。
「……ビールが? それとも俺?」
 不敵に笑って、すがりつく腕に手を添えてゆっくり訊いた。
「ね、伊角さん」
「……」
 だから、それが才能だって。
「いじわる……」
 吐息の様に呟くが、数日前のちょっとしたことをこのあっさりした奴が覚えているとも思えない。
 伊角の方は引きずった。ああダメだなぁと思って、直そうと思って、今までかかってしまった。
「好きだって……和谷の半分しか言ってないから俺、いつも」
「……半分も言ってっかなあ……」
「……」
 実感のこもった和谷の述懐に、返す言葉もない。
「ウソウソ、何、いきなりどうしたの伊角さん」
 和谷は酔っ払いの横に座り直した。ウーロン茶は後だ。
「……寂しくなるって、お前が。あんまり俺がそっけないから」
「ああー……あれか」
「ごめんな」
 膝を抱えるきれいな黒髪を撫でる。ずっと覚えて悩んでいたのかと訊くと、目を伏せた。
「あのねえ。でも回数じゃないかも、好きって。伊角さん、俺の寂しいってちょろっと言ったので今、一回だろ」
 けど、伊角さんの『好き』は俺の為に悩んだその数日分、重いよ。言うと、
「重い……」
伊角はどこか青ざめる。
「重いが嫌なら、濃ゆい」
「……」
「伊角さんの『好き』は貴重だって事だよ、もう!」
 悪い意味じゃないと、抱きしめてあげないと分からないらしい。
 もちろん、和谷は即、思った通りに行動する。
「も一回、言って?」
「……好き、和谷が好き」
 可愛い酔っ払いが腕の中で素直に口にした。
 きっと明日には催促しても赤面してしばらく出て来ない。
「俺も、伊角さんが大好き!」
 当然、和谷は感情のまま告げて足りず、キスのオマケまで付けた。
 それ以上になると、恋人は熱に浮かされて無意識に愛を呟くのだけれど。





⇒End。。。

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