ワヤスミ本家

□アリエナクナイ
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酔っ払い連れで近距離というタクシーの運ちゃんが最も嫌がる客となって、和谷は伊角の自宅に辿り着いた。背に負うて行けない自分の無力にも腹が立つ。
「…かぎ、」
肩を抱えられ、ぼんやり扉を開けようとする伊角に、初めて家が無人なのに気付く。
「誰も居ないの?」
「出張と合宿と里帰りー…」
誰がどれなのかは聞かずとも知れたが、たたきに座りこもうとする伊角をなだめていると、家人の不在がもどかしかった。
「おふろはいるー」
「分かった分かった、」
とはいえ、酒の入った体で風呂は良くないという豆知識が蘇る。
「取り敢えず水飲もうね、水」
ぐずる伊角をやっと居間のソファに座らせ、台所から烏龍茶を持って戻ると、姿がない。
「伊角さんっ?!」
床には点々と着衣が落ちている。几帳面な普段の彼から遠すぎる所業だ。
「わやー、おれおふろー」
幼児返りした様な声を追うと、湯気がもうもうと脱衣所に出ていた。
「ああもうっ、ダメって言ったのに伊角さんっ」
シャワーヘッドを持った酔っ払いは悪びれもせず、
「わやもはいるか?」
と微笑む。
一人で入れたら危ない、などと自らに言い訳しつつ、当然和谷が逆らえる筈もなかった。
勢いに乗りパーカーを脱いでしまってから、はたと和谷は考えた。
(…だって…我慢出来ないよな多分…)
しかし人事不詳の伊角に致すというのは、恋人とはいえ許される事ではない気がする。
「わやーまだー?」
可愛い彼を目前にして盛れないなど、
「…蛇の生殺しだ…」正義感と忍耐力と若い欲求の闘いである。
独り和谷が頭を抱えているのを知る由もなく、伊角が扉を開けた。
「ナニしてんだよう、わや」
「いや、ちょっと」
「さむいだりょーもうっ」
もう、と言いたいのはこっちだ、と思いつつ和谷は伊角に腕を引かれた。
「わや、背中ながしてやう」
「い、いいよ、」
湯気の中で見る伊角は随分血色が良くなった様で、少し安心する。
「ながしてやってばー」
「いや、俺ズボン着てるし、…伊角さん流してあげるよ」
既にシャワーの跳ね返りで僅かに濡れているワークパンツをしげしげと見て、伊角は突然湯船に和谷を突き落とした。
「うわああっ!!」
派手な音をたてて腰から湯につかった恋人に対し、
「ながしゅってば!!」
眉根を寄せて地団駄を踏む。
(…理不尽だ…)
この理不尽さも全て酒の為だが、一体どんな飲み方をしたのかと胃が悪くなる。
ようやっと洗い場に起き上がり、張り付く下肢の着衣を黙って脱ぐ和谷へ、
「…ごめん」
と細い声が掛けられた。
「いいよ、気にしないで伊角さん」
心中もそのままに言って返し、ふと見ると、
「ごめんなさい」
伊角が瞳を濡らしている。
「どっ、どうしたの伊角さんっ!」
「わやいたい?」
「痛くないよ全然っ」
「ほんと?」
「本当だよ!」
それでも泣いて謝罪を止めない伊角の腕が鳥肌になっているのを、
「ね、風呂入ろう?」と促す。
「わやも?」
涙目の彼に負け、小さなキスで慰めて、和谷はシャワーを止めた。
男二人で入るには僅かに余裕のないバスタブに身を沈め、そう言えば前にこの風呂に伊角と一緒に入ったのは随分昔の事だと思い起こす。
あの頃はまだ恋など知らなかった。
等と感傷に浸るフリをして、和谷は必死に自己抑制を図っていた。
伊角の濡れた髪も泣いて赤くなった目も、白い湯の桃の香りに包まれた気だるげな肢体も、和谷には刺激的過ぎた。
「もちょとこっちおいで、わや」
「だ、ダメだよっ」
「なんでー?」
「何ででも!!」
伊角に詰め寄られ、必死で避けようとしていると、
「…おれ、きらいになった?」
ときた。
「嫌いな訳ないよ!」
「だって」
とうつむく伊角の瞳から、また涙が溢れる。
「おこってる、わや。ちかづくのだめだし」
「だあーっ、もうっ」
和谷は理性を放棄…はせず、伊角を抱きしめた。
(この伊角さんは子供なんだ!手を出しちゃダメだダメだっ)
と自己欺瞞を唱えながら。
キスも決して欲情する範囲にはいかない。頬をかすめると、塩味がした。
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