ワヤスミ本家

□Birthday
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(伊角さん、マナーにしたまんまじゃん…しかもバッグに入れてるし)
だから電話しても伊角は気がつかないでいる事が多いのだ。連絡が取れずカリカリした和谷が、『仕事が終わったら絶対ケータイチェック!』と口が酸っぱくなる程教えた甲斐もない。
「全くもう…」
ついでだと、和谷は開いてマナーモードを解除した。
そこまでは良かったのだが。勝手が違う他人の携帯電話で操作を誤ったのか、受信したものを無意識に見たかったのかは和谷にも分からない。
(…中国棋院の人だ)
差出人の、一文字だけの名字に、直感が働いた。

(『よう…うみ』さん?)
中国語での読みは分からない。和谷は、会った事、聞いた事のある人の名前をフル回転で考えた。
(…パソコンが趣味だった…ヤンハイさんか?)
つい先日の様に、中国滞在中にアイドル話に花を咲かせた事を思い出す。何故か、彼に間違いないと感じた。
いけないと思いつつ本文を開ける。
他愛ない挨拶の後、『確か伊角君は4月が誕生日だったよなあ? とりあえずおめでとう。あ、まだか? はっきり日にちを教えてくれよ。最近、楽平は』と中国棋院の近況報告が続いていた。末尾には再会を願う言葉がある。
ただそれだけだ。
それだけなのに、どうしようもなく嫉妬がわく。中国棋院では和谷も世話になった人だ。大人で、頭のいい、頼りがいのある人だ。
全てまだ自分にはない。和谷は唇を噛み携帯を閉じた。
伊角がどんなに彼に助けられたかは、繰り返し聞いた。伊角が一番大変な時に、救ったのは自分ではなかったのだ。
いつか伊角は和谷の存在にも助けられたと言ったが、それは間接的なものに過ぎない。
このメールに、和谷はまざまざとその絆を知らされた。
と、また伊角の携帯が着信を鳴らす。
ヤケになって和谷が開くと音は止んだ。
サブジェクトは『追伸』とある。再び中国からのメールだった。
『和谷君はどうしてる? 調子はいいかい』
親指で長文を打つのが苦手な伊角にからかい半分、『できるだけ長』い返信を促している。
「…」
和谷は複雑な気持ちでこれを読んだ。
醜い嫉妬など楊海が知る由もない。しかし、自分への心配はありがたい反面、余裕の現れの様で、楊海との落差を痛感せずにはいられなかった。
「和谷…どうしたんだ」
突然声をかけられ、はっとする。携帯を握りしめた和谷を、いつの間にか伊角が見下ろしていた。
「いっ…伊角さん…」
慌てて和谷は恋人の携帯を閉じる。
「えっと…マナーになってたからさ、ちょっと…解除してた」
「…そうか」
伊角はそれ以上何も言わず、携帯を受け取った。
「出よう」
「あ…、うん」
どこかギクシャクとした和谷が、リュックを掴む。
二人分のトレイを片付けた伊角に何か言おうとして、
「…メール来てたみたいだよ」
返信を待っているだろう人の事を和谷は思った。
「ああ」
伊角が受信箱を開けば、未読がないとすぐに知れる。店を出ると、湿気をはらんだ空気に包まれた。
「…伊角さん、」
空は厚い雲で覆われ薄暗い。
「…ごめん。メール読んだ」
伊角の背中に、和谷はようやく告げた。
「楊海さんからの。読もうと思ってた訳じゃなくて、たまたま、…」
その先はどうしても弁解になるので言えない。自分でも自分のした事が許せず、
「ごめんなさい」
和谷は謝罪だけを呟いた。
「…いいよ」
伊角は振り返らず言う。
「気にしてない」
穏やかな声で返されても、和谷の気持ちが収まらない。
「本当に?」
「ああ」
「…怒んないの?」
喉の奥に張り付く違和感は何だろうか。
「怒って欲しいのか?」
伊角は横顔に大人の笑みを浮かべている。
ここが公道でも窓一つない密室であっても、伊角は同じ反応をするのだろう。
「俺が、」
理由の分からない苛立ちに、和谷はあがいた。
「全部メールチェックしてたんだとしたら? 伊角さん」
横に追いつく和谷を、やっと伊角は見た。
「それでも怒んない?」
繰り返される質問に、微笑は困惑に変わる。
「何で…。嘘だろう?」
そんな疑いをかけられるのも辛かったが、
「さあ?」
和谷はことさらに煽った。
「…もう、するなよ」
間を置き、伊角は肩に掛けた鞄を持ち直す。
「それだけ?」
膨らむ苛立ちを抑えられない。
駅に向かう通りは既に灯りがつき始めた。
他に何か言うべきことがあるだろうと、和谷の瞳が迫る。
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