ワヤスミ本家

□Birthday
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「…和谷」
伊角は迷いながら、奥底の悲しみを遂に口にした。
「俺がそんなに信用出来ないか」
「ほら! 実は怒ってんじゃん!」
勝ち誇った様に和谷が言う。伊角は歩を速めた。
「怒ってない」
「それを怒ってるって言うんだよ!」
「…じゃあどうしろって言うんだ…っ」
立ち止まり、向かい合って初めて、和谷は伊角の青白い表情に気付く。
「伊角さんはいつも我慢だか何だかしてる」
「別にしてない」
「してるだろ!」
「お前には関係ない」
不毛な口論だと、伊角が柄にもなく斬って捨て、
「関係ないって何だよ!」
和谷の苛立ちを倍増させた。
「そうやっていつもいつも、」
「皆がお前みたいに単純じゃない!」
声が大きくなり、耳目を集めるのを感じる。早くここから逃げ出したいと、それだけを伊角は願った。
「伊角さんは素直じゃない! 俺が年下だから、譲ってばっかなんだろっ」
いつかその我慢がきかなくなったら終わるのではないか。
「…もういい」
そんな事はないと、誰も言い切れない。
伊角が和谷に背を向ける。雨の匂いがした。

□ ■ □ ■

花散らしの雨と風が夜通し騒いだ。
眠れなかったのはそのせいだと、和谷は鳴らない携帯を眺めた。あるいは今日の、兄弟子との対局が気になっていたのもある。
「はよー和谷ー」
「…進藤。おはよ」
持っていた携帯をジーンズの後ろポケットに突っ込んで、和谷は同期を迎えた。
「何、今日冴木さんとじゃん、和谷」
「ああ」
おかげで、あの喧嘩別れの事を考えるのは半分で済んだ。否、本当は7割くらい考えたかも知れないが。
「まあ冴木さんなら何とかなるんじゃねえの?」
「何とかってどういう意味だ? 進藤」
背後から突然腕で首を締められ、ヒカルは悲鳴を上げた。勿論犯人は冴木である。
「んんー?」
「ごめんなひゃいっごめんっごめんってば!」
「全く…」
少しは歯に衣を着せろと、冴木が苦笑する。最近の不調を気にしているのは本人だけではないのだ。
「冴木さん、今日はよろしくお願いします」
「ああ。こちらこそ」
和谷の挨拶に応えた冴木が、
「よう」
エレベーターから降りた人に手を挙げた。一気に和谷の緊張の糸が張る。
「おはようございます」
「おはよ伊角さん」
ヒカルが屈託なく笑うのに、伊角は口角を上げた。
『おはよう』という一言が明るく言えれば、昨日のわだかまりがわずかでも解ける気がする。
しかし、
「…伊角さん、…」
和谷が声をかける間もなく、伊角はまっすぐ対局室に入っていった。
「えーと、伊角さんは…あ、女流の人とだ。桜野プロ」
「…何か変じゃなかったか、あいつ」
鋭く冴木が指摘するのに、
「緊張してんじゃないかなあ、九星会の先輩相手でさ」
ヒカルが呑気に「和谷と同じで」と付け加える。
「俺は緊張なんか全っ然してねえよ」
「少しはしてるって言え和谷」
冴木がまた苦笑して、和谷を殴る真似をした。
それでも力ない和谷の様子に、
「何があったか知らないけどな」
冴木はその背中をぽんぽんと叩いた。
「手加減はしないぞ」
「…当たり前っすよ」
叩かれた背は暖かかった。


「伊角さん? たぶん外出たんじゃねーかな」
「…桜野さんと?」
「うん」
否定して欲しい所を、思いっきり首を縦にしてヒカルは缶ジュースを飲みほした。
「…何で対局相手とメシ食いに行くんだよ…!」
肩を落とし和谷が髪を掻きむしる。
どう考えても避けられているとしか思えない。いくら見つめても、対局室で伊角が視線を返す事はなかった。
「仲いいよなあ、あの二人。携帯まで色違いでさ」
「…色違い…?」
うらめしげな和谷に、ヒカルはあっさり言う。
「さっき見て知ったんだけどー」
同門なのだし、まああり得る話なのだが、今の和谷にはクリティカルなダメージになった。
「和谷ー? メシどうすんの」
オレ弁当だけど、と言うヒカルを残し、
「…いらねー…」
和谷はふらふらと廊下に出た。すれ違った塔矢アキラが不審の眼差しを送るのにも、構っていられない。
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