07/16の日記

00:17
幸福 T
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目が覚めて

時計を見たら
午後2時を回っていた。
カーテンをしめ切っているため
天気はわからない。
そもそも今日が
何日だかもはっきりしない。

大学に進学して
一人暮しを始めた。
もう三年になる。

一人暮しを始めるにあたって
必須アイテムに
“カレンダー”という文字は
浮かばなかった。
親から届く荷物にも
“今年のカレンダーよ”
等というものは入ってこない。

携帯を手にとり
日付を確認する。
が、充電が切れていた。

別に今日がいつだって構わないが
分からないとなると
微妙に気になる。

冷たい塊でしかない携帯を
ベッドに放って
代わりに僕が
ベッドから抜け出す。

このしけたワンルームには
ベッドとテーブル
冷蔵庫位しかない。
洗濯は、週末にランドリーで済ます。
テレビはなく、
新聞も取っていない。

家賃の事を考えて
線路沿いだが駅までは少々かかるアパートを選んだ。

カーテンの向こうに
電車が走る音が聞こえなければ
僕はそこに世界があるかどうか
わからないだろう。

なんてか。

カーテンを開けると
眩しい光が容赦なく降り注いだ。

線路には、何も走っていない。

本気で
“もしかして
世界は滅んじゃったのか”
と思ったりも、する。

窓を開けて
世界の音を聞く。


よかった。

どこかの道路やどこかの線路から
人々の悲しい営みの音が
聞こえてくる。
世界はまだ、
そこにあるようだった。

“よかった”?
何がよかったんだろう。


それらの音に混じって
光化学スモッグ注意報が聞こえた。
僕はよろよろと窓を閉め
鍵をかける。
そして、カーテンをさっと閉める。


親には言っていないが
実は、学校に行っていない。
今期は確実にD判定で
卒業も危ぶまれる。

バイトは四月に
“学業との両立が困難なため”
ということにして、辞めた。

何も、やる気がわかない。

ほぼ毎日、ベッドの上で
通り過ぎる電車の音を聞いている。
それだけだった。

きっかけがあった訳じゃない。
いや
あったのかも知れないが
わからない。

親から送られて来た荷物の中で
何かが腐って
臭いを発している。
今月分は、開けていない。
七月の暑さに
クーラーのないこの部屋では
その何かは
三日ともたないらしかった。


生活出来ていない。

自覚しているが
疲れた。死にたい。
そんな風に考えることも
最近増えていた。


そんな生活でも
たまには外に出る。
外出先は
主に区立の図書館だ。
特別用事がある訳ではないが
人は多くないし、静かで
おまけにクーラーがきいている。

“こんなんじゃダメだ”
と微かに気力のわいた日は
自然と足が向く。
学校へ行け、という話だが
単位の取れない授業に出る程
僕に勉学意欲はないのだった。


今日も
なんとなく行く気になり
のろのろと身支度をした。
顔を洗い歯を磨き、
適当なジーパンに
適当なTシャツを着る。
それだけなのに
家を出たのは
外出を決めてから一時間後、
午後3時半だった。

区民図書館の閉館は
午後5時だ。
行ってもすぐ追い出されるな
と思いつつ
玄関に放ってあった
折りたたみ自転車をこぐ。
図書館までは10分弱だ。
途中、めげそうにはなる。
しかし引き返すのもしゃくだ。
この葛藤は毎回の事で
目的地に着く頃には
いつも内心半ベソであった。
自分でも馬鹿だと思う。

緑に茂った
夏の桜並木を通り抜けた所に
それはある。
歴史的建造物を思わせる造りで
僕は結構気に入っている。
そして
その造りに似つかわしくない
自動ドアを一歩入れば
冷房に冷やされた空気が
心の半ベソを
いくらか癒してくれるのだった。

館内に人は疎らで
吹き抜けの読書スペースは
少々広すぎなのでは
と思わせる。
いや
混んでいる時間帯に
来た事がないだけかもしれないが。

僕はカウンターを通り過ぎ
適当な本棚を選び
適当な本を数冊抜き取って
図書館の中2階にある
自習スベースと思しき席に
腰をかける。
壁に向かったカウンター席で
正面には
10p四方の分厚いガラスが
整然と敷き詰められており
外の涼しげな木陰の様子が
魚眼レンズのごとく
各々に映し出されている。

僕の両隣は空席で
その一つ向こう側は
左右とも使われている。

他の席も
一つ置きに、使われている。
意外にここは混み合っていた。

左では、僕位の女性が
ノートに何やら書き込みながら
本をぺらぺらやっている。

右では、背広の中年らしい男性が
僕のように数冊本を重ねており
なにか所在なさ気に
宙をみつめていた。

背広にシワが目立つな
と思った。



僕は数冊持って来た本を
パラパラめくった。
『フロイト』『夢分析』
『統合失調症とは』
『うつを治す』
『ロールシャッハテスト分析法』
どうやら僕は
心理学・哲学
の棚を選んでしまったらしく
どの本にも
全く興味がわかない。

活字が苦手な訳ではないので
『うつを治す』
の適当なページを開いて
読んでみる。

“薬物療法と精神療法”

ダメだ。全く読む気がしない。

『うつを治す』
をパタンと閉じ、机に置いた。

と同時に
右一つ向こうの
背広の男性が立ち上がった。

疲れているのか
深く、
でも静かなため息を一つついて
彼は立ち去った。

僕は
『ロールシャッハテスト分析法』
を手にとり
ぱらぱらめくりだす。
これは結構面白かった。
線対象の奇妙な図形が
数ページ置きに現れ
意味不明の英語と
論文が書いてあった。
図形の意味はよく解らなかったが
これはコウモリに見える
これは骨盤みたいだ
と一人遊びをした。

と、館内放送が流れた。
閉館10分前であった。

ロールシャッハとやらで
意外に時間を潰せたな
と思いながら席を立つと
多くの人々が
もういなくなっていた。

ふと見ると
右一つ向こうの席
あの背広の男性がいた
その机の上に一冊だけ
本が置き去りになっている。

布張りで、文芸書サイズの
黒い本だった。


光の加減で微かに
タイトルが浮かび上がっている。

『幸福』

そうあった。


あの人も沢山本を重ねていた。
一冊、置き忘れたのだろう
と、立ったまま手に取って
軽くぱらぱらめくってみる。

すると中から
何か滑り落ちた。

机の上に落ちたのは
白い縦長の封筒だった。
封はされていない。

あの人のものだろうか。

『幸福』を脇に挟み
封筒を手に取る。

悪いとは思ったが
確認の為に中を見てみた。

三つ折りの白い紙が二枚
入っている。




それは、遺書だった。


思わず、
『幸福』を落としてしまった。
静まり返った図書館に
鈍い音が響く。

キョロキョロすると
遠くの席に一人残っていた人間と
一瞬目があった。
慌てて逸らす。

僕は
『幸福』を拾い上げ
机の上に置き
背広の人の席に座り直し
その遺書を最後まで読んだ。


彼は結婚しており
子供が一人いるようだった。
二人への謝罪から
遺書は始まっている。

彼が遺書を書き
自ら命を絶とう
と考えたきっかけは
リストラだった。
6月の事らしい。

妻子には言い出せず
朝はいつも通り出勤し
この図書館に来て
時間を潰していたようだった。


“申し訳ない”
“本当に申し訳ない”

何度も書かれていた。

自分の死亡保険金で
妻子の当面の生活を支えよう
と考えているようだ。


“本当にすまない”


遺書はそこで終わっていた。



“すみません”


“…はいっ!?”


突然後ろから声をかけられ
僕は
相手が退くぐらい
驚いてしまった。
遺書を瞬時にひっくり返し
机に押し付ける。

“閉館時間を
過ぎているのですが…”

“…あっ、はい
あの、すみません
今、帰りますんで…”


図書館のスタッフだった。
時計を見ると
5時10分。

もっと長い時間が
過ぎたような気がしていた。



僕は二枚の紙を
三つ折りにし直して
封筒にしまった。

この遺書
というか、謝罪文は
恐らく背広のあの人の物だ。

封筒を黒い本の最後に挟み
抱えて階段を降りる。

僕はこの本を
借りていく事にした。


“すみません。
この本、忘れ物なんですけど”

“あ、はい。
かしこまりました
お預かりします”

“あ、いや、
借りたいんですけど”

“はい?”

“借りたいんですけど
誰かに、貸出中ですか”

“は、あ、少々お待ち下さい”


閉館時間を過ぎているのに
面倒な利用者だ。
申し訳ない。


カウンターで
受付の女性が
本のバーコードを読み取り
パソコンのキーを打つ。


“あ、貸し出して、ないですね”
“あ、あのじゃあ
借りていっても良いですか”

“はい。カードをお持ちですか”

カード?
電子マネーか何かだろうか。

なんにせよ
僕は今日、手ぶらであった。

“あ、ないです”

“ではこちらにご記入
お願いいたします”

渡された小さい紙と
ボールペン。
住所、氏名等を書くらしかった。

書き終わると
プラスチック性の
クレジットカードのような物を
渡された。

署名をお願いされた。

カードは
ネイビーの地に白抜きで
“図書カード”
と銘打ってあった。
裏にはバーコードがある。

そうだった。
僕はこの図書館で一度も
本を借りたことがなかったのだ。
いつも此処を
コンビニの立ち読みのように
使っていただけだった。

こんな手続きを踏むとは
意外だった。

“借りますよ”“どうぞどうぞ”
とまではいかないものの
もう少し簡単な物だと思っていた。

もしこの手続きの存在を
知っていたなら
こんな時間にすみません
位の一言を加えただろうものを
今の僕は確実に
“図々しい奴”
に成り下がっていた。

今まで
人に嫌われないように
疎まれないように
邪魔にならないように
ひっそりと生きて来たつもりだ。

なのに今
僕は“無知”の名のもとに
“図々しい奴”
として
この女性の
邪魔者になっているのだった。


“二週間以内に
御返却お願いいたします”

“あっはい、すみません”

彼女の
懇切丁寧な対応と笑顔に
ますます気が滅入った。

“…ありがとうございました”
小声で言って

カードをポケットに入れ
遺書入りの本を脇に抱え
僕は図書館を出た。

しまった。
聞き忘れた事がある。


僕は再度自動ドアを抜け
カウンターに駆け寄る

“あのっ、すみません”

“はい?”

事務室のドアへ向かう
さっきの女性を呼び止める。

気が滅入るが、仕方がない。


“あの、覚えてるか
わからないですけど
4時半過ぎに、背広の男性が
何か借りていきませんでしたか”

“背広の…”

目線を左上にやって
考えてくれている。

“あ、結構…シワシワの…?”

凄い。覚えている。
やはり、
毎日来ていたのだろうか。

“そうですそうです”

“今日も、何も…
借りていかれませんでした”

“今日も…?”

“あ、たいてい
借りていかれないんです
あの方、あっ”

そこに別のスタッフが現れ
彼女に目配せする。
彼女はバツが悪そうに

“では、失礼します”

と、事務室に消えていった。

個人情報、というやつだろうか。

僕は少々がっかりしながら
図書館をあとにする。



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00:10
幸福 U
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背広の男性は
本を借りていかなかった。

この遺書が
いつ書かれたものなのか。
もし今日、あの場所で
だとすると
今日彼は、遺書を書き直して
死んでしまうかもしれない。

しかしこの遺書が
ずっと以前に書かれたものなら
まだ覚悟が決まっていない
という可能性はある。

家に着くまでの間
自転車を漕ぎながら考えていた。

僕の折りたたみ自転車には
籠がなく
『幸福』は脇に挟んで
片手運転で帰って来た。
捕まらないか、ビクビクした。


部屋に帰るとベッドに座り
黒々とした『幸福』を
じっと見つめた。

よく考えずとも
悪趣味な本である。

硬い表紙をめくってみる。
真ん中に縦書きで
“幸福”。
著者は、知らない外人だ。
名前からして
ロシア人あたりだろうか。

ページをめくると
目次になる。
“第一章…犠牲者”
大きめのフォントで、そうある。
小さめのフォントで
その後の表題が並んでいる。

目次は2ページに跨がっていた。

僕は表紙を閉じ
裏表紙を開ける。
そこにはあの、白い封筒がある。

もう一度中身をよく読んでみた。
顔料インクの細いペンで
丁寧に書いてある。
横書きだ。
字は小さく、行間が広い。

遺書というものは
もう少し重苦しく
格式のあるものだと思っていた。
筆で、もしくは筆でなくても
縦書きで
人生最後の意思表示の重さ
を滲ませている物
それが遺書だと思っていた。
パソコン等以っての外で
そんなものは
サスペンスで使われるような
自殺に見せかけた殺人
であるときにしか
用いられない手段だろう。

しかしこの
目の前にある遺書からは
パソコンで作られたような
冷めたイメージが伝わってくる。
そうだ。まるで、
得意先への謝罪の書類。
新聞の謝罪欄。


現実は小説よりもなんとやらだ。
僕の想像なんて
小説よりもベタで
どれも
現実を言い当てていないだろう。
きっとこの遺書が
“現実”なのだ。

その“現実”のイメージに
あの本のビジュアルが重なった。

黒く、微かに浮かび上がる
“幸福”。

僕の生活も
そんな物じゃないだろうか。

はたから見れば
幸せである。
住むところはあるし
毎月仕送りもある。
グータラしても罰せられない。

しかし
僕の内側では何故か
黒く粘着質の何かが
ゆっくりと撹拌され
いつか下るだろう罰に
怯えている。

人付合いは上手くない。
いや、ど下手だ。
その僕に
こんな安泰な世界を与えられても
先が見えない。
イメージできない。
何もない。
殺してくれたほうが
“幸福”なのかもしれない。
その“幸福”が
何色かわからないが
黒くはない。そう思う。


読んでもいないのに
『幸福』には何故か
全て正しいことが書いてある
かのように思えて
恐怖で尚読めなくなる。

遺書を再度封筒にしまう。

無くさないよう
なるべく内側のページに挟もうと考え
黒い本を開くと
そこに調度栞のように
紙が挟まっているのを発見した。
栞の存在で
このページが開いたのだろう。

黄緑色の
画用紙の切れ端
といった感じだ。

“返却期日”
という印刷の下、
“ 月 日”
の所に日付が押印してある。

7月30日。

確か、返却期限は
二週間以内だった。

と、いうことは
今日は7月16日。

やはり
カレンダーを買うべきか。

いや
携帯を充電すればいい。

僕は決めた。
明日から
背広のあの人が現れるまで
毎日図書館へいく。
開館時間からだ。
勿論、
永久に来ない場合を想定して
期限も設けた。

『幸福』を返却するまでの
二週間だ。

目的は、
遺書の返却。
必要であれば、この本もだ。


胃のムカムカするような
ワクワク感。
不謹慎かもしれないが
体がそう感じている。


その時、
僕は思い出してしまった。

僕は動揺して
『ロールシャッハテスト分析法』
他数冊を
本棚に
返し忘れてしまっていたのだ


きっと
従業員の誰かが
舌打ちをしながら戻して下さったことだろう。

少しワクワクした僕への罰だ。

軽くめまいを感じる。
何て僕は馬鹿なんだろう。
恥ずかしい。
申し訳ない。




19時。


携帯を充電器に挿さないまま

僕はベッドに倒れ込んだ。



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