07/25の日記

03:11
幸福 V
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あれから毎日
僕は図書館に通い詰めた。

図書館は9時に開館する。
朝8時半に目が覚めて
急いで準備をして
出掛けた事もあった。
あんなに機敏に動いたのは
久しぶりだった。


ここ数日は、
朝の7時に起きるために
携帯を充電し
アラームをかけている。
7時半にやっとベッドを出て
準備を始める。
こんな生活は久しぶりだ。
そのおかげなのか
夜も眠れるようになったし
食欲もわいてきた。

玄関内の脇に置きっぱなしだった
親から届いた荷物を
半月ぶりに恐る恐る開けると
中で、
“以前はトマトだったもの”や
“実は茄子だったもの”
が異臭を放っていた。
それを片付けて
一緒に入っていた
“チン”すれば食べられる御飯や
レトルトのカレーを食べて
生活した。
電子レンジがあることなど
忘れていた。


そして今日もまた
あの黒い本が入った
肩掛けバッグを提げて
自転車のペダルを踏む。

体力がついたのか
自転車を漕ぐスピードも
日に日に速くなった。

図書館には
9時少し前に到着した。


自動ドアの前で待っていると
じわじわと汗が滲み
額や首を伝った。
自動ドアの電源が
まだ入っていないのだ。

早く開かないかと思っていると
事務室から
あの受付の女性が現れ
僕と目が合うと
あっ、と片手を口に当て
事務室へ戻った。
すると、自動ドアが開いた。

まだ
涼しいとは言えないが
外よりは快適な空気が
僕の汗を冷やす。

受付を通りすぎようとすると
彼女がまた
事務室から顔を出し、
笑顔を見せる。

“いいんですか?”
僕が尋ねると

“いつも早いですよねぇ”

“あぁ…はい”

彼女は、ふふ、と笑うと
また事務室に戻った。

僕はまだ
『ロールシャッハテスト分析法』
だのなんだのを
置き忘れてしまったことを
誰かに批難されるのではないかと
ビクビクしていた。
しかし恐らく
彼女は知らないのだろう。

だとしたら、別の人だろうか。
考えるだけで恐ろしい。



僕は
出入口が見える席に座る。
あの
無駄に天井の高いスペースだ。
当たり前だが
まだ、誰もいない。

今日までの数日
僕はずっと同じこの席に
朝9時から夕方5時まで
昼食は採らずに座り続けた。
退屈で眠くなったりもした。

眠らないよう言い聞かせながら
図書館に入ってくる人を
自動ドアの音がするたび観察し
時折、
館内をぐるりと見渡してみる。

その合間に
『幸福』を少しずつ読み進めた。
現在、第三章第二節

“労働と賃金”

字体を見ただけで
眠気がくる。

しかし僕は
真面目に読み進めて来た。
退屈で
無意識にページをめくってしまうこともあったが
その都度思い直し
戻ってきちんと読み返した。

興味がある、とは違う。
僕は何に対しても
“見落とす”という事に
不安がついて回るのだった。

お陰で、定期テストの勉強が
思うように進まなかった。
ノートや教科書を
隅々まで読まなくては
気が済まなかったからだ。

そんな必要はない。
わかっているが
やめられなかった。

そんな自分に嫌気がさしていた。

大学二年の秋期に
16単位中
10単位を落とした。

単位の取れた三教科は
レポートだったので
なんとかやり遂げたが
僕はその時点で
気が狂いそうだった。
だめだ。できない。
もうA判定なんか取れない。
ノートも教科書も、
莫大な量だった。

10単位を放棄した僕は
大学に行かなくなった。
そして
三年の春期も、
まだこうしているのだった。


“偽善というものは
自らの罪を熟知した上に
成立するものであって
そうでない偽善は偽善ではなく
それはまさに「無知」と…”


あーやめた。

紐状の栞をはさみ
一度本を閉じた。


さすが
寒い国の人が書いた本
とでも言えばいいか
冷たく暗い言葉が並んでいる。

ロシアの芸術は好きだ。
ロシア性のカメラが写し出す
薄暗く
ノスタルジックな色合いも好きだ。
けれどこの本は
好きになれなそうだ。
この黒い本は、
読者を批難し、冷笑し
“どうせわからないだろう”

うつむいているように感じる。

黒い“こいつ”は
偉そうな言葉を並べ立てておいて
“お前にはわからないだろう
けど、それでいいさ”

と突き放す。
そのくせ
“そうだろう?”
と同意を求めてくる。

わかって欲しがっているのだ。
けれどそれを
ストレートに伝えられない。
だから
反抗的な言葉で
読者を批難する。
それが甘えなのだと
著者は気付いているのだろうか。



“図のウロボロスが
示した通りである。
私達はこの無限の循環の中に
組み込まれているのだ。
そこでどのような
“価値=賃金”や
“価値=生き甲斐”
を見出だそうとも
このウロボロスは
すれ違う事なく循環していく。
もしそこに賃金や生き甲斐を
見出ださずとも
この蛇は”

隣のページに目をうつすと
二匹の蛇が
互いの尾を噛み
輪を作っている図形が
本のTページを使って
示されている。

そこには
10のマイナス23乗だとか
素粒子、原子や電子
銀河系、更には宇宙全体が
順に蛇の上に描かれ
循環している。

わけがわからない。


“ただひたすらに循環する。
ウロボロスそのものには
目的がないのである。
私達が労働をし、生きていく。
その事は、
ウロボロスに
価値を見出だそうとする行為
である。
しかし残念ながらこの蛇は、
自らの尾を追いかけている。
ただそれだけなのである。”



ウロボロス、は
なんとなく知っている。

破壊と再生の神
とも言われ
自らを飲み込みながら
絶え間無く
自らを再生させている。
ウロボロスは
二匹の蛇、ではないらしい。

物質と精神、万物の統合。

全ては消滅することなく
破壊と再生を繰り返し
永久に形状を変えていく。
そんな意味があるようだ。

しかし『幸福』の著者は
このウロボロスを
“虚しさ”の象徴として
捉えているようだった。


僕の実家では
猫を飼っている。
猫は子供の頃
しばしば自らの尻尾を追いかけ
くるくる回った。
回りから見れば滑稽であり
とても虚しい行為の様だが
本人は至って真面目なのである。

ウロボロスの蛇も
真面目に真面目に
破壊と再生を
繰り返しているのだろう。
もしそれが、誰かから見れば
滑稽で
虚しい行為だったとしてもだ。

ただ
図の蛇の瞳は
真面目、というよりかは
死んだ目をしていた。



“死んだ”…


僕が待ち続けている
遺書の筆者は
もうすでに
死んでしまったのかも知れない。

あれから九日。

仕事のないあの人は
図書館に来ないで
何処で何をしているのだろうか。

もし生きているとしたら
この遺書が
見られた可能性を恐れて
ここに
足が向かないのかもしれない。


本に挟んだ封筒を抜き取り
手に取って眺めた。

何でもない白い封筒なのに
とても神聖で
厳粛な気持ちになるから
不思議だ。

こういう心の動きがあるから
人や物のそれぞれの事情
みたいなものは
極力知りたくない
と思ってきた。
全ての事象から距離をとって
息を殺すみたいに生きて来た。

その筈なのに
僕は今
他人の重大な秘密を知っている。
そしてあろうことか
他人の人生に
参加しようとしている。

自分が、よくわからない。



自動ドアの開く音。
ちらっと見る。
違った。
本に視線を戻す。

この繰り返しに
段々、
飽きて来てもいた。
もう、いいんじゃないだろうか。

そしてまた、
自動ドアの開く音がする。
ちらっと視線を上げる。
本に視線を落とす。




僕はすぐ顔を上げた。


来た。来たのだ。
あの、あの、あの人だ。
うつむいた
少々猫背の男性。
格好は7月16日とは違って
スーツの上着を羽織っておらず
セットアップのベストに
ネクタイをしめている。
だが、間違いない。

生きてる。


しかし
この遺書の筆者が彼である
というのは
状況から判断した推測で
まだ
疑う予知はあるかもしれない。
僕が
とんでもない思い違い
をしていたならば
それはそれで仕方あるまい。


僕は
『幸福』を鞄で隠し
悲しい後ろ姿を目で追う。
彼は
自習スペースに向かう階段を
登っていってしまった。

僕は席を立ち
気付かれない程度の距離を取って
黒い本と
白い封筒を手に彼を追う。


彼は
いくつ目かの本棚に
曲がっていった。
図書館の本棚は
大きな百科事典等が無ければ
本の上の隙間から、向かい側が
見えるようになっている。

僕はあの人が曲がった
一つ手前の棚で
本越しに見える
あの人の後ろ姿を見た。

何か探しているようだ。

僕は
『幸福』の背表紙を見る。

下の方に
“心・哲”
“937”
“R・コ”
と横三列に書かれた
小さなシールが
ラミネートされてついている。

彼が居る棚は
“心理・哲学/900〜”

この本を探しているようだ。
僕は思い違いをしていない。
彼が
この遺書の筆者であろう。


僕は
その人が正面に見える棚に
移動した。



“あの”

本の上にある隙間に
目線を合わせるため
少し屈んで声をかける。

無言で視線を上げたその人は
僕より少々小さいようで
そのまま視線が合った。

“あの”
再度声をかける。


遺書の筆者と思しき彼は
少々つり目ではあるが
目尻の皺が穏やかだ。
しかし、ひどいクマが
彼の疲れを顕示している。
白髪混じりの髪は
真ん中より少し左で分けられ
後ろに流しているようだ。
整っている、とは言い難い。

公演を終えた指揮者みたいだ
と思った。


“これ、探してますか”

少し離れて
『幸福』の表紙を見せる。

“…あの、あなたは…”

反応からして、やはり、である。
彼は、声が意外と高かった。
40代後半かと思われた彼が
今は30代後半に見える。



“僕、この間、
貴方の近くに座ってまして…
それで、あの
これ、忘れ物で”

ひどい文法だ。
僕は
喋るのが苦手な自分を呪った。
まぁ、いつものことだ。
僕は続けた。

“それで
本を開いたら、封筒が出て来て
僕、これ、返さなきゃって
大切な物かも知れないし…
これ、貴方の、ですよね?”


疲れた指揮者は
軽く目を見開いて
驚いたような顔をした。
そして眉をひそめて

“私が来るのを…
毎日待っていたんですか…?”

そりゃぁあやしいよな。

“ああ…はい
どうせ、暇なもんで”

と、僕は“(笑)”をつけた。
(自嘲)の方が正しいか。


“…そうですか…
………すみませんわざわざ
それで…中は”

彼が目線をそらし、
また僕を見る。


“あぁ――
見てません見てませんっ”

本を持っていない左手と首を
ブンブン横に振った。

なんだかわざとらしい。


“ただ、大切なものだったら
図書館の人に
捨てられちゃっても、
アレですし。だから…。”

何がアレなんだ、自分。


“なんで、お返しします”

僕は
白い封筒を
僕らの目線が行き交う隙間に
挿し入れた。

彼は無言で受け取り
封筒を見つめたまま
静止していた。

“それで、
この本、なんですけど…
僕、借りてて、大丈夫ですか?”

返事がない。


“あのっ”

少しトーンを上げた。
勿論、図書館であることは
配慮した上で、だ。

彼は肩を震わせ
“はいっ?”
とこちらを見る。

大丈夫だろうか…
今ここで
“考え直してください!”
と言った方がいいのだろうか。


だが僕はそうしなかった。


“この本、
借りてても、いいですか?”

“あ、はい、
私は構いませんが…”


言葉遣いがとても紳士だ。
彼は本当に
リストラされるような人材だったのだろうか。

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03:10
幸福 W
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“……それじゃぁ、僕はこれで”

僕は紳士の言葉を待たず
階段とは反対側に歩き出した。
彼と会わないよう遠回りして
階段を降りるためだ。

よくわからないが
本棚を挟んだ位の距離で会うのが
一番良い、と思った。

教会にある
懺悔室、みたいなものか。


細かい格子で区切られ
お互いの顔が
よく見えない、懺悔室。
一人は一般人、対するは牧師だ。

そこでは、
重大な秘密も語られる。

ネットやメールのように
人は
お互いの顔が見えなかったり
適度な距離があったほうが
話しやすいようだ。
そこに、
信頼関係は期待できなそうだが。

僕には
遺書を読んでしまった
というやましさがあり
相手には
家族に対する罪悪感があった。
僕への疑いもあっただろう。

彼は、
僕が遺書を読んだと言ったら
どうしただろうか。

僕が牧師様であったら
正しい対応が出来ただろうか。


僕は
あの場でそうしなかった事が
正しかったのだ
と言い聞かせる。

そして
いるかどうかも分からない神様に
“どうか
今回僕が打って出た「賭け」に
味方して下さい”
と祈りながら
図書館をあとにした。




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