◇小説
□狭間に
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ふわり、と音がした。
私は一瞬驚いて振り返るが、誰もいない。
当たり前だ。ふわりだなんて音は現実には存在せず、文章や空想上で曖昧に、実に抽象的に描写される空言だ。
何かを聞き間違えたのか空耳だろう。
「疲労ですかねぇ。ここの所、睡眠ですらままならない状態ですし」
誰に告げるでもなく他人ごとのように評し、高松は白衣のポケットをまさぐる。
しかし、何もない。空だ。
「おかしい…」
眉を寄せズボンのポケットも同様に漁り確認を済ませると、収穫のない両手をしみじみ見つめ、形だけのため息を一つ。
本当は白い煙を長々と吐き出したいのだが、この場にないのだから仕方がなく、その動作だけでもして安定を取り戻そうという腹だ。
「煙草、どこに置いてきたんでしょうか?」
ぽつりと呟くが、頭の中は既にそのことを下らない情報と判断して、抹消してしまう。
高松はデスクに転がった万年筆を手に収め、再度資料と格闘する。一時の中断など消却するように定期的にチェックを入れ、見直すべき事項にはいくつかの適切な言葉を添える。ごくごく質素で単調で重大な仕事は、高松にはうってつけだった。没頭していれば、どんな違和感があろうともさほど気にはならない。空腹や睡魔や少々の頭痛など、彼の前では取るに足らない信号でしかない。そのため時間を図り意図的に仕事を中断して体の声に耳を傾けなければ、体はよく壊れたものだ。
ものだ、というのは克服したという意味ではない。
克服どころか、彼は現在その気質のせいで大変な頭痛に悩まされている。
「はぁ…」
今度は、自然にこぼれた息。心なしか熱をもっている気がする。
「私…一体…」
視線を手前に引けば、自身の左手が目に入る。軽く引けば、汗ばんだ手のひらにくっついて資料が一枚スライドする。
「あっ…!」
動揺して受け取ろうと両手を伸ばしたのが失敗だった。右手につられた資料の束がデスクから踊り出て盛大に室内を舞った。
「あぁ。何てこと…」
半ば諦観の念に駆られながらも高松は椅子から立ち上がり、舞い散る紙へ手を伸ばす。
その一枚に届きそうで、届かなかった。