まるマ

□オーダーメイド
1ページ/3ページ


目を覚ましてから、彼はしばらく動けなかった。

ただし彼は、身体に致命的な傷を負っていたわけではない。何か重い病気を患っており、その発作に見舞われていたのでもない。彼は至って健康体である。――思考が全く巡らなかったのだ。

しかしそれもほんの短い時間のことだ。今では自分が男にしては長すぎる黒髪であることも知っているし、筆記具さえ渡されれば、自分の名前を漢字で書ける。

ただ一つだけ、分らないことがあった。

彼はむくりと身体を起こす。

辺りに壁らしき物は無かった。上を見上げても天井らしき物は無く、かといって空らしき色にも見えない。下にもやはり床らしき物は見えなかった。

しかし彼は浮いているわけではない。不思議な空間に、彼は横たわっていた。

ここはどこだ。

「目が覚めたか」

突然、そう声がした。

声だけではない。いつの間にか、見知らぬ男が目の前に立っている。

男は只ならぬオーラを身に纏っていた。それは男の髪が目映いばかりの金髪であるためか、もしくは男の瞳が光とも闇ともつかない色を宿しているためか、或いはもっと別の要因によってか――彼は判断しかねた。

美しい男だと、思った。

「まだ呆けているのか? しょうのない奴め。いい加減口を利いたらどうだ」
「あなたは――」

そこで彼は驚いて、自分の喉元に手をやった。もっと掠れた声を覚悟していたのだ。随分と久し振りに喋った筈なのに、何故こんなにも明瞭に――久し振り?

何を以て“久し振り”などと思ったのだろうか。いや、実際そうなのかも知れない。しかし、そうだと判断する材料も、彼は持ち合わせていない。

「俺が誰か、という質問には答えかねる。何故ならそれは、お前が知る必要の無いことだからだ。闇持つ者よ」
「闇?」

聞き慣れない単語に反応を示す。

「何のことです」
「その髪の色だ。まさかまた、己の色を忘れたとは言うまい?」
「闇……」

彼は困惑しながら自分の髪を梳いた。

「そんなこと、初めて言われました」
「そうか」

男は短く呟いた。

「しかし…“闇持つ者”とは何も私だけに当て嵌まる言葉ではないのでは? 黒髪の人間なんて大勢いるし、黒は――」
「黒は、あらゆる者の心にある闇と同じ色だ。確かにな」
「あ、はあ……」

今正に言わんとしていた言葉を奪われて、彼は拍子抜けしてしまった。

この男とは、どうにも息が合わない。そしてそれは恐らく自分に非は無いものと思われた。さっきから訳の分からない事ばかり口にする、この男が悪いのだ。

――気を許してはいけない。

彼はそう思った。

「頭の具合はどうだ?」
「え?」
「頭を打ち付けたろう。いや、頭だけではないな。全身を打ち付けた筈だ」
「私が?」

心なしか、頭の奥がちりっと痛んだような気がした。

「何のことです。あなたは何か知っているのですか? ここは一体どこです?」
「そう急くな。時間はたっぷりとある」
「急いてなどいません。教えて下さい。ここはどこなのですか? 今は何時です? 昼ですか、夜ですか」
「昼でも夜でもない」

男はため息をついた。

「まったく、口うるさい奴が来たものだ。ここはどこでもない。現世でも、来世でも。前世でもないぞ」
「なんですって?」

彼は思い切り顔を歪ませた。

「からかわないで下さい」
「からかってなどいないぞ?」
「そのような話、誰が信じるものですか。どこでもないのなら、ここは一体どこなのです」
「お前も大概、強情な男だな。どこと問われても、ここはどこでもないのだ。強いてどこかと定めるならば――そうだな、精神の住まう場所、とでも言っておこうか」

ああ、と彼は目を伏せた。

彼は一気にやる気を失くしてしまった。

ああ――男は気が狂れているのだ。

ここが只ならぬ場所であることは間違いない。どんなに広い部屋にも壁はあるし、延々砂漠が続くと思われるような灼熱の国にも空はある。未知の深海にだって底はあるだろう。

しかしここには、そのいずれも無いのだ。自分の生まれ育った国でないだけではない。おかしいどころの話ではない。

だから彼にとって、目の前のこの男だけが頼りだった。どんなに得体が知れなくとも、どんなに話が噛み合わなくとも、仕方がない。

――精神の住まう場所? そんな馬鹿な。

けれど仕方がない。彼は、男を頼るより他にない。

他に道は無いのだ。

「どうしたら――ここから出られますか?」




次へ

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ