まるマ
□オーダーメイド
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目を覚ましてから、彼はしばらく動けなかった。
ただし彼は、身体に致命的な傷を負っていたわけではない。何か重い病気を患っており、その発作に見舞われていたのでもない。彼は至って健康体である。――思考が全く巡らなかったのだ。
しかしそれもほんの短い時間のことだ。今では自分が男にしては長すぎる黒髪であることも知っているし、筆記具さえ渡されれば、自分の名前を漢字で書ける。
ただ一つだけ、分らないことがあった。
彼はむくりと身体を起こす。
辺りに壁らしき物は無かった。上を見上げても天井らしき物は無く、かといって空らしき色にも見えない。下にもやはり床らしき物は見えなかった。
しかし彼は浮いているわけではない。不思議な空間に、彼は横たわっていた。
ここはどこだ。
「目が覚めたか」
突然、そう声がした。
声だけではない。いつの間にか、見知らぬ男が目の前に立っている。
男は只ならぬオーラを身に纏っていた。それは男の髪が目映いばかりの金髪であるためか、もしくは男の瞳が光とも闇ともつかない色を宿しているためか、或いはもっと別の要因によってか――彼は判断しかねた。
美しい男だと、思った。
「まだ呆けているのか? しょうのない奴め。いい加減口を利いたらどうだ」
「あなたは――」
そこで彼は驚いて、自分の喉元に手をやった。もっと掠れた声を覚悟していたのだ。随分と久し振りに喋った筈なのに、何故こんなにも明瞭に――久し振り?
何を以て“久し振り”などと思ったのだろうか。いや、実際そうなのかも知れない。しかし、そうだと判断する材料も、彼は持ち合わせていない。
「俺が誰か、という質問には答えかねる。何故ならそれは、お前が知る必要の無いことだからだ。闇持つ者よ」
「闇?」
聞き慣れない単語に反応を示す。
「何のことです」
「その髪の色だ。まさかまた、己の色を忘れたとは言うまい?」
「闇……」
彼は困惑しながら自分の髪を梳いた。
「そんなこと、初めて言われました」
「そうか」
男は短く呟いた。
「しかし…“闇持つ者”とは何も私だけに当て嵌まる言葉ではないのでは? 黒髪の人間なんて大勢いるし、黒は――」
「黒は、あらゆる者の心にある闇と同じ色だ。確かにな」
「あ、はあ……」
今正に言わんとしていた言葉を奪われて、彼は拍子抜けしてしまった。
この男とは、どうにも息が合わない。そしてそれは恐らく自分に非は無いものと思われた。さっきから訳の分からない事ばかり口にする、この男が悪いのだ。
――気を許してはいけない。
彼はそう思った。
「頭の具合はどうだ?」
「え?」
「頭を打ち付けたろう。いや、頭だけではないな。全身を打ち付けた筈だ」
「私が?」
心なしか、頭の奥がちりっと痛んだような気がした。
「何のことです。あなたは何か知っているのですか? ここは一体どこです?」
「そう急くな。時間はたっぷりとある」
「急いてなどいません。教えて下さい。ここはどこなのですか? 今は何時です? 昼ですか、夜ですか」
「昼でも夜でもない」
男はため息をついた。
「まったく、口うるさい奴が来たものだ。ここはどこでもない。現世でも、来世でも。前世でもないぞ」
「なんですって?」
彼は思い切り顔を歪ませた。
「からかわないで下さい」
「からかってなどいないぞ?」
「そのような話、誰が信じるものですか。どこでもないのなら、ここは一体どこなのです」
「お前も大概、強情な男だな。どこと問われても、ここはどこでもないのだ。強いてどこかと定めるならば――そうだな、精神の住まう場所、とでも言っておこうか」
ああ、と彼は目を伏せた。
彼は一気にやる気を失くしてしまった。
ああ――男は気が狂れているのだ。
ここが只ならぬ場所であることは間違いない。どんなに広い部屋にも壁はあるし、延々砂漠が続くと思われるような灼熱の国にも空はある。未知の深海にだって底はあるだろう。
しかしここには、そのいずれも無いのだ。自分の生まれ育った国でないだけではない。おかしいどころの話ではない。
だから彼にとって、目の前のこの男だけが頼りだった。どんなに得体が知れなくとも、どんなに話が噛み合わなくとも、仕方がない。
――精神の住まう場所? そんな馬鹿な。
けれど仕方がない。彼は、男を頼るより他にない。
他に道は無いのだ。
「どうしたら――ここから出られますか?」