今日から君と

□序
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角を曲がった先から、小さな足音がこちらに向かって来るのが聞こえた。グレタだ。

「ヴォルフラム!」

僕の姿を見つけて、走り寄って来る。

「グレタ」愛しいその子の髪を撫でる。「走ると転ぶぞ」

「平気だもん。それよりヴォルフは? もう大丈夫なの?」

何が、と言いかけて口をつぐむ。そうだ、僕は具合が悪くて休んでいることになっている。この子はそれを心配してくれているのだ。不安に揺らぐ小さな瞳に、僕の胸はチクりと痛んだ。

「ああ。疲れていただけだ。少し眠ったからもう大丈夫」

そう口から出任せを言うと、グレタは「良かった」と笑ってくれた。可愛い娘に心配を掛けて、さらに嘘までついているのだから、後ろめたいことこの上ない。

正確には、グレタはユーリの娘であって、僕の娘ではない。ユーリと婚約関係にある僕にとって、グレタは将来的に僕の娘にもなるのだから、つまりはグレタは僕の娘である、というのは僕の持論だ。しかし最近それも怪しい。

僕は本当は知っているんだ。あの求婚が、ただの事故であること。ユーリにはそんな気など微塵も無いこと。だから僕は必死で繋ぎ留める。彼の一番近くにいられるように。

とはいえ、グレタは血盟城の者たち全員にとっても愛すべき子であるので、僕が彼女に愛情を注いだところで何ら不都合は無い。例えこのまま僕らが結ばれなくとも……

くだらない考えを振り切る。

そういえば。

「グレタ、お茶会はどうした? ユーリ達と一緒だっただろう」

それとも、もう終わったのだろうか。

「あのね、ユーリがコンラートと大事な話をするからって、お部屋を出てなさいって」

僕は思わず顔をしかめた。

ということは、今部屋に二人きりということか。大事な話とは何だろう。グレタにも聞かせられないような話。僕ではなく、ウェラー卿と……

いや、と僕は卑しい疑心を払う。

僕を呼ばなかったのは、部屋で休んでいる僕を気遣ったからだろう。グレタを外に出したのは可愛い娘に心配を掛けない為で、大事な話というのは何か相談事に違いない。僕から尋ねれば、きっと話してくれる筈だ。――本当に?

ぐるぐる廻る思考に、僕自身がついて行けない。

「…ヴォルフ?」

ああ、何でもないんだ、グレタ。

そう言うことも叶わずに、僕は雨の中に歩み出る。弱くもない、強くもない雨に打たれる。心地良くはない。

「どうしたの? 風邪引いちゃうよ?」
「大丈夫だ」

何が大丈夫なのかは、自分でもよく分からなかった。

雨は確実に僕を濡らす。雫と雫が溶け合い、頬を伝う。髪も、軍服も、びしょびしょだ。僕はただ、静かに降り注ぐ雨の中に立ち尽くした。

ユーリの傍にいたい。

そう願えば願う程、何故だか彼を遠く感じる。

ユーリの傍にいたい。ユーリの傍にいたい。ユーリの傍にいたい。――けれど今、彼の傍にいるのは僕じゃない。

僕は醜く嫉妬心を燃やすことしか出来ない。



この想いもこの涙も――この記憶も、雨に流れて消えてしまえば良いのに。



序-おわり-
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