text
□僕たちは、気付かない振りをしていた。
1ページ/1ページ
―あれから彼女は、できるだけ普段どおりにセブルスに接するよう努力してきた。
無駄だとは分かっていたが、彼に抱いている感情を忘れようともした。
あの時はどうしても言い出せなかったけど、彼に訊きたい事なら山のようにある。
もしも彼の本音を聴いて冷静なままでいられたら、自分に拍手を送ろうと思ったほどだ。
この気持ちに気付いてしまったその瞬間からこの心は彼のもので、ハーマイオニーを舞い上げるのも、奈落の底に突き落とすのも、彼次第なのだ。
報われない恋をしてしまった。
彼はまだリリーを愛しているというのに、
リリーを忘れて自分だけを見て、なんて、言えるはずがない。
―いつか、マグルの本で読んだことがある。
身分の違う男に恋をした、哀れな少女の物語。
あの少女は自分だ。
身分不相応の相手を求めて、届くはずのない手を伸ばしている。
( …結局、あの主人公はどうなったんだっけ?)
涙の理由が知りたかった。
彼女は何でもないと、そう言いはしたが何でもないのなら泣かないで欲しい。
その泣き顔につられて、自分まで苦しくなってしまうから。
あの時彼女を抱き締めたのは、
涙を流しながらも懸命に笑おうとする彼女の姿が愛しくて堪らなかったからだ。
ただ、それだけ。
あの泣き顔は、リリーとは重ならなかった。
―重ならなかった、のに。
心の内側から沸々と込み上げる淡い熱は、リリーに抱いたそれと似ていた。
生涯ただ一人と決めていた想い人の影が少しずつ少しずつ、
自分の中で想い出になりつつあるのだろうか。
十数年前に出来なかったことを、今度こそはと、誰かが急かしているのだろうか。
セブルスは静かに目を閉じた。
瞳の奥で、リリー・エヴァンズが笑っている。
あの頃とは少しだけ違う、
寂しそうな、でもリリーらしい意思の強さを秘めた笑顔。
そのきれいな曲線を描いている唇が、
“行きなさい、”
と動くのを見た。
“失う前に。”
そしてセブルスは目を開ける。
(…ああ。
あのリリーは紛れもなく、
自分の、本心だ)
1ヶ月が経った。
「ご苦労。今日で最後だ」
彼はいつものように、静かにハーマイオニーを見下ろす。
薬品庫の前で彼女にそう告げたセブルスの声は、心なしか沈んでいるように聞こえた。
最早、何故彼女に罰則を課したのかは憶えていない。
それでも、彼女と共に過ごした、僅かでも心躍るような時間だけは鮮明に脳裏に焼き付いている。
明日からまた、元通りの日常。
だけど、その日々に戻る前にどうしても訊きたいことがあった。
「Ms.グレンジャー、ひとつ、質問があるのだが」
なんの前触れもなく、セブルスは突然口を開いた。
ハーマイオニーは驚いて声が裏返ってしまったが、
かろうじて「はい?」とだけは返せた。
セブルスは、彼女に背を向ける。
こんなことを訊いて、まともに彼女の顔を見ていられる自信がない。
山積みのレポートを整理する振りをして、
彼は出来るだけ淡々と言葉を続けた。
「君を泣かせた原因は、一体、何なのかね。
…いや、誰、と訊いた方が正しいのか」
いつもと同じ皮肉の類。
そんな風に聞こえるように声を出す。
本心を悟られたら終わりだ。
「…―何故、先生が、それを気になさるのですか?」
彼の背中の向こうで、ハーマイオニーが息を呑んだのが分かった。
どう答えるべきか悩んだ末に、
セブルスは、今質問しているのは我輩だ、と、精一杯力を込めた声で彼女に放った。
嫌になるくらい音のない研究室に、彼のその唸り声とハーマイオニーの困惑した声が交互に響く。
「…先生にはなんの益体もない…ただの、私個人の恋煩いです」
消えそうな声でそう言った。
油断すれば聞き逃してしまいそうなくらい小さな声だった。
にも関わらず、それからは妙にしっかりした響き感じられて、
セブルスは彼女に背を向けたまま大きく目を見開く。
「では何故…―」
ほとんど無意識の内に、唇が動いていた。
「何故、我輩の顔を見た瞬間に、
泣きそうな顔をしたのだね」
それを訊いて、どうするつもりなのだろう。
この期に及んで尚冷静さを保っている彼の頭は考えた。
自分の心臓の音がやけに遠くから聞こえてくるような気がする。
相変わらず研究室の中は静かだ。
耳が痛くなるくらいに。
「…それは、……それだけは、言えません…」
彼女の声が静かに震えた。
セブルスは見ようともしないが、今のハーマイオニーの表情は、あの時にも増して泣き出してしまいそうだった。
この感情だけは目の前の教師に知られてはいけない。
もし知られてしまったら、
今までのように話すことは叶わなくなる。
授業のことを聞くのも討論し合うのも、本を貸してもらうのも。
―それだけは絶対に嫌だ。
例え彼の目が、リリー・エヴァンズから離れることがなくとも、
自分が唯一感じられる“セブルス・スネイプ”の存在を失いたくない。
大好きだと思ったあの時間を、思い出にはしたくない。
「…命令だと、言ってもか?」
「―命令だと、言ってもです」
そこに籠もっていたのは確かな想い。
動揺の入り混じった声であるにも関わらず、強い響きを帯びた声だ。
彼は、ゆっくりと目を閉じる。
「そうか…ならばもう用はない。
寮に戻れ、Ms.グレンジャー。じきに夕食の時間だ」
埃っぽい机に両手を付いた。
セブルスはもう、彼女の顔は見れないと思った。
残酷過ぎる。
まるで死刑宣告のようだ。
恋煩いなどと、そんなことを聴かされては、
もうどうしようもないではないか
成す術など、ないではないか
「…先生。今度は私が、質問してもよろしいでしょうか?」
沈黙を守ることが肯定の印。
彼は未だにハーマイオニーに背を向けたままだった。
「―リリーは……先生の愛したリリー・エヴァンズは、
…どのような、女性だったのですか?」
その名前を聴いた瞬間に、嫌な汗が彼の背を伝った。
―もう、後戻りは出来ない。
セブルスはゆっくりと、
彼女の方へ、身体を向けた。
To be continued…