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□僕たちは、気付かない振りをしていた。
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3週間目も後半に入ったある日の放課後。
ハーマイオニーはいつものように、薬品庫の掃除のためにセブルスの自室へと向かった。
最初の頃はこの不気味な地下牢に来るのが嫌だったが、
今は躊躇いなく軽い足取りで薬学教授の研究室へと来れるようになった。
その理由は明確だ。セブルスと話すのが楽しみなのだ。
3回、扉をノックする。
返事がない。
もう一度叩いてみる。今度は少し強めに。
いつもなら無愛想ながらも、きちんと中に招き入れるような言葉があるはずなのに
今日はいくら待っても、それが聞こえてくることはなかった。
その場に佇んでいたハーマイオニーは、しばらくすると、決心したように重い扉を押した。
地下の暗い部屋に入って一番に目についたのは、机に向かっているセブルスの背中だった。
そこに居るのに自分に返事すら返さないということは、
相当気が立っているか、一人になりたくて無視を続けているかのどちらかだ。
ハーマイオニーは、できるだけ静かな声でその背中に向かって呼びかけた。
「…先生?」
相変わらず、返事がない。羽ペンを走らせる音も聞こえない。
不審に思った彼女は、ゆっくりとセブルスに近づいて、その真横に立った。
そのとき、声や羽ペンの代わりに彼女の耳に届いたのは、ほとんど規則的な呼吸音。
彼が眠っていることに気付くのに時間は掛からなかった。
目を閉じて寝ている彼の姿が、何故か不思議でたまらなかった。
彼の目が苦手でなくなっていた今のハーマイオニーには、綺麗な漆黒の瞳が隠れているのが残念に思えたし、
あの冷酷無慈悲な人が、自分の前でこんなに無防備な顔を晒しているのかと思うと可笑しくて、優越感を感じた。
彼の眉間に皺がひとつも寄っていないのも、彼女にとってはかなり新鮮だ。
(…可愛い、なんて言ったら、先生、減点するかしら)
セブルスの寝顔を眺めながら、頬を緩めたハーマイオニー。
彼女はしばらく見つめていたが、彼が起きる気配は全くない。
正直、とても暇だ。
起こしなどしたら、多分とてつもない形相で睨まれるに違いない。
彼を起こすことを諦めた彼女は、今まで落ち着いて見ることのなかったセブルスの研究室を、改めて見渡してみることにした。
勉強熱心な彼女でなければ、思わず目を覆いたくなるようなホルマリン漬けや標本が、所狭しと並んでいる。
これでもかというくらい分厚い本も数多く所蔵してあった。
手にとって読んでみたくはなったが、彼の私物だと思うと、思うように手が出せない。
自分がそれらを見て回るブーツの音だけが耳に聞こえる。
本当に静かだ、と彼女は思った。
放課になって活動が活発になったはずの賑やかな上階の声が、この部屋には届かない。
声も聞こえず窓もなく、息が詰まるようなこの部屋で生活することを望んでいるのが、あのセブルス・スネイプだと考えると、違和感がなさすぎて少し笑えた。
一通り見終えた後もう一度セブルスの寝顔を見つめた。
いつもは皮肉っぽい顔をしてるけど、こういう時の顔はとても綺麗で穏やかだと思う。
すると、寝ているはずの彼の唇が微かに動いていることに気が付いた。
「先生…?」
起きたかと思い、ハーマイオニーは声を掛けてみるが、返事は返ってこない。
また、薄い唇が動いた。
何かを呟いているようだ。
彼女の耳がそれをしっかりと聞き取ったとき、
その声は、ひとりの女性の名を呼んでいた。
「リ…リー…」
聞き覚えがある名前だった。
ハーマイオニーの隣にいつもいる親友の母親の名前だ。
しかし何故、彼はハリーの母の名を口にするのだろうか。しかも、寝言なんかで。
過去を詮索するのは野暮なことだとは分かっていたが、好奇心に勝てなかった彼女はますます耳をそばだてた。
次に声を拾ったとき、
セブルスの唇からは、愛の言葉が囁かれていた。
途切れ途切れではあったが、「愛している」と確かに聴こえた。
聞かなきゃ良かった、と思った。
彼の口が「愛している」と言ったのは、今は亡きハリーの母に対してだった。
いや、恐らくは、ハリーの母になるずっと前。
学生時代から、彼はリリーのことを想っていたのだ。
胸が、張り裂けそうだった。
彼のことを不憫に思ったからではない。
それが原因で彼に恨まれているハリーを可哀想に思ったからではない。
それだけは確実に違うと言えた。
だけど、ただひとつ、たったひとつだけ否定できないのは、
彼がひとりの女性を愛していたことを知った時、
この上なく絶望した自分が居たこと。
彼女には、分からなかった。
彼女は、知らなかった。
その気持ちを持つことの意味も、
その気持ちに付けられた名前も。
―頬を伝う涙を無視して、
ハーマイオニーは研究室から飛び出した。
To be continued…