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□上司と部下の、立場上
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噂は前々からあって、でもそうあって欲しくないから考えないようにしていたのが本音であって。




配置転換、出向要請。つまりは上司の転勤、彼女の移動。
せっかく恋人同士になれたのにこの情報はあんまりだと、今の俺は仕事も手につかないほどの体たらく。しかもその情報が本当だという現実を突きつけられたくないがゆえ、上司の彼女にことの真偽も聞くこともままならず、むしろそれが聞かされるのが嫌で最近は、若干彼女と距離を置き気味になっている、という現状の己のこの情けなさ。

「主任、送別会の件ですが…」

「ああそろそろ決めないとね」

もうすぐ行くんだし時間がないわ、そんな会話を横耳で捉えた俺は、今すぐにでも会話する二人の間に割って入って、「そんな話し聞きたくない」などと怒鳴りたい衝動にかられてしまう。しかしここは職場で当然そのような子供じみた行動なんて出来やせず、ただただ目の前の書類の内容を熟考するふりをしてその書類を睨みつけるだけに留まらせるしかない。全くもって女々しい、女々しすぎるぞ俺。だがそれでも我慢してしまうのは彼女が上司であるからだ。もしこの立場が逆であるならば、立場を利用しどうとでもしようがある(それもどうかは思うが)のだけれど。しかし現実今の立場では、俺が動くことによって彼女の立場がマイナスになってもプラスにはならないだろうという賢明(すぎる)判断に基づいている…もういっそのこと無理にでも彼女を孕ませて強引に退職に追い込んで、ついでに俺から離れられないようにしてやろうか、なんて、頭をよぎるは最高に最低な方法で、卑怯な計画即却下、とも出来ないのも情けない。

「……ええ、それでいいわ。あと明日の会議で使うデータの件なんだけど、」

テキパキ無駄なくシンプルで、効率的な彼女の仕事っぷり。それを今度は横目で盗み見しつつ、俺、仕事してる彼女の姿も好きなんだよな、とも思ってしまう自分をやはり情けなく女々しいともう笑うしかなかった。

「その書類は神田くんが……神田くん?」

「っ、はい」

だが突然名指しで呼ばれ勢いびくついた身体、手の中で書類がくしゃりと立てる乾いた音。そんな俺に彼女は少しだけ目を見開くが、すぐにいつもの毅然とした態度でも一度呼ぶ、「神田くん」と今度は強く。

「その書類、明日の会議で使う資料じゃないの?」

「あ…」

「出来てるなら持ってきて」

「…はい」

マズった。随分とかっこわるいとこ見せてしまった。
上司の上に年上で、大人の上に頭も良くて、そんな彼女に負けたくないし認めてももらいたい。だからいつも仕事に真面目に取り組んできたつもりであったのに、彼女がここからいなくなるそれだけで、彼女がそれを俺に教えてくれないそれだけで、両方とも理由があってのことなのだろうけどそれだけ俺は大ダメージで大混乱。仕事は上の空ミス連発の、避けてる自分は棚上げで。

「…使えないわ」

けれど渡した書類を受け取って、しわくちゃな書類を指先で伸ばしながら彼女は言う、キッパリと。

「作りなおして」

そしてずいっとこちらへ書類を差し戻しながら彼女は言う、ハッキリと。

「悪いけど…残業、確定ね」

だけど俺が受け取ろうとした書類をすいっと引っ込める、若干の笑みを含む困り顔が俺を更に落ち込ませた。






なにやってんだろ、俺
格好悪いとこなんて見せたくない。
彼女を幻滅なんてさせたくない。
しかし作った書類をリジェクトされて、挙げ句の果てに残業で、ひとりぼっちで居残りで。ああ全くどんだけ気が抜けてんだ俺って男は。
資料をもとに作り直す書類。パソコンで入力しててもどこをどう手直しすればいいのかすら考えられないほどに途中途中で切れる集中力。自分のいる机のところだけ点した電気が節電の為に変えたLEDの蛍光灯のはずなのに、なんともいえない妙に感じる暑苦しさ。社内とはいえ仕事中だとはいえ、誰もいないのをいいことにネクタイ緩めて取り去って。

負けたくない

そう思ってがんばった。
認めて欲しいから仕事に打ち込んでもみた。
でも呆気ない。彼女がここからいなくなるかもなんて思っただけで、同じ職場じゃなくなると考えてしまうだけで、やる気があっさり逃げていく。なんじゃこりゃ。どれだけ彼女中心なんだよと男らしくないこの俺の思考が嫌になる。これじゃ仕事の出来る彼女に呆れられてしまうって、そんなことにだって思考は占められる。

「ほんと…なにやってんだ、俺」

出た声は溜息混じり。進まない書類作成にも嫌になって、少しでも気分を変えようかと伸ばした手は椅子にかけてあるスーツの上着の胸ポケット。たまにしか吸わない煙草を取り出し火を点ける。吐き出す煙だって溜息混じりで我ながら彼女にどれだけ惚れてるか、今更ながら思い知って自嘲して。

「なっさけね」

半笑いの呟きだって情けない。ぎりりとフィルター噛みしめ煙草の苦みを全身にまき散らし、苦い気持ちを更に大きくした途端、その苦みに混じった甘い香りが俺の鼻を擽った。

「社内は禁煙よ?神田くん」

「っ、主任…!」

驚きの余りに落としそびれた煙草の灰。それがぽろりと落ちた膝の上。

「もう、なにしてるのよ」

彼女はそんな俺に仕様がないなとでもいうように苦笑して、灰を払ってくれているその手を掴む。

「…帰ったんじゃ、ないんですか?」

「…部下を一人残して帰れるわけないじゃない」

半ば咎めるように軽く睨めば彼女にしては珍しい、動揺したように視線は伏せられまるで俺から逃げるようなその様子。なのに上の立場から諭すようなその言葉。なんだよ移動のことを一言だって言ってはくれないのにその態度。仕事じゃ確かに部下だけど、恋人になんの説明もなしかよと、頼りがいがないと言われてる気すらして、避けてた自分は心の隅に追いやって、ため込んでいた気持ちを爆発させた。

「きゃあっ」

持っていた煙草をマナーなんて無視して床へと落とし、足で踏みにじり火種を消す。けれど自身の心に灯ってしまった火種は一気に大きくなっていた。
掴む腕をそのままに、彼女の身体を反転させてパソコンのキーボードの上に押しつけて、背後からまくるタイトスカート、滑らかな感触のストッキングを撫でながら、指先が辿り着くのは暖かく、柔らかな。

「ちょ、神田く…あ、」

「…静かに」

「静かにって…待っ」

ストッキング越しに指を動かせば彼女の腰までぴくりと動く。待ってと言われても待たない意地悪、それは彼女だっておんなじだ。俺に移動のことを全く言おうとしないんだから彼女だって意地悪だ。俺はいったいあなたのなんなんだ恋人なんじゃねぇのかよ。けれど子供みたいに行くなって、俺のそばにいろよだなんて言えない歯がゆさもどかしさ。だからこれはその腹いせか、はたまた彼女をそばにおいておきたい俺のワガママか。仕事だなんて言いたくない。仕方ないなんて思いたくない。彼女をどこにも行かせない。


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