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□あだはな〈一輪〉
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夜に緋色の桜が散るようにひらひらと翻る着物の袂。同様に鴉の濡羽色に流れる長い髪と、しんしんとした夜の静けさを破る白い月のような冴え冴えとした肌、澄んだ瞳。そしてそれらを際だたせるのは、唇と瞳を彩る…朱色。
ああ『夜の蝶』とはよく言ったものだ。




…なんて綺麗な人なんだろう。

初めてこの人を見た時に思った…もちろん今でもそれは変わらずに。

「いらっしゃいませ」

いつものように仕事の帰り道。
いつものように立ち寄るお店。


《クラブ徒華(あだはな)》


お店の名前だけみれば普通のクラブ。でも普通と違うのは入ってみれば一目瞭然。

「あら暴れてるお客様がいらっしゃるわ、ごめんなさい?少しだけ待ってて頂戴な……なにしてやがるテメェ」

高い声が低くなる。
私を担当する『ユウ』の声だ。
この店が楽しいのはこんな瞬間。
この人が興味深いのはこんな瞬間。
美麗な『ユウ』が持つ男と女の二面性。私にはそれがとても面白い。
まあ有り体にいえばつまりここはおかまさんの経営するクラブ、ということだった。

「もう一編言ってみやがれこの‘ピー’野郎」

本当に美人は怒っても美人だ。
放送禁止用語を艶やかな朱の唇から浴びせられ、首を『ユウ』に締め上げられているのはサラリーマン風の酔っ払い男。いったい何を言ったかは知らないが、大体想像はつく…だってここ、おかまさんの店だし。悪口の言葉なんてきっといくらでも。
けど眦をどれだけ吊り上げ怒っていようが、口からどんなに下品な単語が飛び出そうが、やっぱりこの人はそんじょそこらの女性よりもよっぽど綺麗。そんなことを考えながらとりあえず今は『ユウ』が男を締め上げ終えて、この私の卓に戻るのを待つ。まあこんな場所ではよくある諍いの風景だし、一見たおやかなその外見に似合わず腕っ節が強い『ユウ』のこと、いつもみたいに簡単に相手をのしてすぐに戻って来るだろうと高をくくり、私はグラスに手を伸ばしたのだが、暗に反して戻ってきたのはその酔っ払い男の身体、だった。


ガチャン


「けっ、こんな店、騙されて入ったんだ!だから金なんか払えるか!」

「…ちょっと、」

なんなのよ人に迷惑かけないで、と『ユウ』から逃げようとして足がもつれたのか、倒れ込んだ私の卓の上に未だ乗り上げたままの男を声をかけて睨みつければ、初めて私の存在に気が付いたみたいに「ああ?」と目が合い、それからなぜだかねっちりと上から下まで眺められた。

「…本物の女がいるじゃん」

「ちょっ、」

その眺めた視線の留まる一点。
むんず、とばかりにいきなり掴まれた私の胸。
「やっぱり女がいいよな」なんてにやつく男(こいつ最悪)にぞわりと嫌悪感に鳥肌が立つ。「やだ、」そういいかければ口を開く前にその男の顔が苦痛に歪んだ。

「…テメェは本当に最低な‘ピー’だな…」

地を這うような声。男の頭をがっしりと掴んで握る掌はギリギリと音すら聞こえそう。そうして私からは簡単に引き剥がされて、ズルズルとフロアを引擦られ酔っ払い最低‘ピー’野郎は退場、というより出入り口からは真逆の店の奥へと消え去った。

「ごめんなさい、嫌な思いさせて…大丈夫?」

さっきまで吊り上がっていた眦を下げ、さっきまでの般若の形相(でも美人)からは打って変わって、申し訳なさそうにすぐに戻ってきた『ユウ』。少し憂いたその表情はいつものこの人だった。

「いいよ、気にしないで」

正直にいえば男に揉まれた感触がまだ嫌な感じに残っていないでもなかったが、こんなこと大したことじゃないし、軽い痴漢にでも遭ったって思って我慢しようとした。だってせっかくこうして楽しく飲みに来ているのに。
だから「平気」と手を振れば、この言葉に『ユウ』はきゅっと愁眉を寄せて元居た私の隣に腰掛けた。

「……強がり」

また、声が変わった。
微かに呟かれた声のトーンは、いつものわざと高く出しているのであろう女らしいものとは違い、男のそれ。いつもの困った客を蹴散らす時と同じような。でもその声に私が目を向ければ同じようなトーンの男の声だと感じたのに、悲しそうな表情がそこにはあった。

「ユウ…?」

「…消毒」

「え…あ…」

屈む『ユウ』の身体。廻され引き寄せられた私の腰。
さらりとした黒髪が私の頬をくすぐったのと、立ち上る清潔な石鹸の香りを感じた時には、ふわ、朱色の唇が私の広げたシャツの胸元、素肌に触れて、空いた片手が優しく私の胸を包んでいた。


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