world is yours
□world is yours 5
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「はっ!」
私の裂帛の声が道場に響く。
「はっ、やっ!」
正掌を相手に喰らわす直前に寸止めする。
「そこまで!」
師匠の声の終了の合図に、手のひらを合わせて礼をして、私はふ、と息をつく。
私の日課。
それは子供の頃から通っている拳法の道場に通う事。
…でも何の役にも立たない。
ただ今は忘れたい事の為に通っているだけに過ぎない。
ふーっと息を整える。
…生きるのは面倒な事だ。
色んな出来事に出会う。
結っていた髪を解く。
辛い事を分かち合う人もいない。誰も傍にいない。
首を振り髪を落とす。
…辛い世界なんて、なくてもいい。いる意味なんてない。
礼をして道場を後にする。
出来る事なら猫として生きたい位だ。自由気儘、そうして本能だけで生きていければどんなに楽か。
ふっと溜め息をつく。
猫。
そう言えばあの黒い猫。
私が勝手に『クロ』と呼んでいるあの猫。
あの仔は一体どこから来たのだろうか。不思議な瞳。威厳のようなものさえ感じるその姿勢。そして訴えるようなその心。
何か、違う。
今まで飼っていた私の猫とは違う不思議な、感覚。
精悍な動きとそして私の心を助けるような、あの…
首を振る。
まさか、猫相手に。
くすりと苦笑を漏らす。
更衣室で道着を脱ぐ。
今度はシャワーを浴びる為に髪を上げた。
熱いシャワーが汗と疲れた身体を癒やして、唇からはは、と息が漏れる。
…でもあの仔が人間だったら、かなり格好いいだろうな。
黒く艶やかな毛並みと整った顔立ち。そして何より意志の強そうなあの、瞳。
見つめられれば心臓が騒ぎ出す。
私の気持ちをわかってくれている気がして、安心する。
負担をまるで感じない。最も猫に負担を感じる事なんてないが、そんな事ではなくて、何ていうか、
「…バカみたい」
本当に何を考えているんだ、私。猫が人間だなんて、そんなおとぎ話でもあるまいし。
いつの間にか彼を猫ではなく人のように感じている自分。
きゅっとシャワーを閉じて私はシャワールームを出た。
道場を出て、私の家まで歩いて15分。
辺りを見渡しても『クロ』の姿はない。
それにしても、あの仔、鳴かないよね。
鳴き声は初めて抱き上げた時に聞いたっきりだ。それからずっと彼は黙ってただ私と供にいる。
どこかの飼い猫だったのかなぁ。でも首輪もしてなかったし、何より人に懐くような性格でもなさそうだ。
いつも窓から見据えるように外を眺めて、まるで何かを確認しながら寡黙に考え事をしているみたい。そしてその姿は、いつかどこかへ消えていってしまいそうな、そんな不安を私に与える。
…イヤだな、それ。
あの仔がいなくなる。
この感情は、ずっと一緒にいた猫がいなくなった時とも、好きだった彼と別れた時とも、ましてや仲の良かった親友と話さなくなってしまった時とも、違う。不思議な、感情。
たった二週間で、情でも湧いたのかな、私。
家に帰れば『クロ』がいる事を確認しては安堵している私がいる。
…猫が心の拠り所だなんて、どんだけ寂しい女なんだ。
思わず苦笑を漏らしながら近道の公園を通った。その時、
…何?
気配を、感じる。
ぞくりとしたその瞬間。
「っ!!」
口を塞がれ草むらへと連れ込まれた。
やだ!何!?
記憶が鮮やかに蘇る。
そう、あれは中学一年の夏、だった。
必死で抵抗した。
でも、ダメだった。
大きな男がのしかかり、塞がれた口と縛られた手首と殴られた頬が、私の戦意を喪失させた。子供の頃からやっていた拳法なんて、何の役にも立たなくて、ただ恐怖の記憶だけが未だに残る。
…誰にも言えなかった。
たまたま家に誰も居なかったという事もあったが、私は震えながら自分の部屋に籠もり、帰宅した親に夕飯だと呼ばれても、「お腹が痛い」と断った。
…同じだ、あの時と。
男が持っていたタオルを私の口に詰め込む。男のベルトが私の両腕を縛る。
嫌だ、嫌だ嫌だ!
またなの?なんでこんな嫌な事ばかりが起きるの?
私の動きを封じるように、倒された両膝の上に乗る男が、スカートの下から容赦なく手を入れてくる。
「っ」
……もう、嫌だ、こんな世界。
涙が滲んだ瞬間、黒く小さな物体が視界に飛び込んで来たのと、「アヤ!」と聞いた事のない、でもどこかで聞いた事のある声で名を呼ばれたのが、同時、だった。