夢幻時間

□そこにある幸せ
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幸せの意味がよくわからなかった。
最初は幸せと言う意味がわかっていたと思う。
けれどいつしか見えなくなった。
その幸せすらも、その意味すらも、それを求める自分すらも。

ざあざあと降り始めた突然の土砂降りに、今まさに帰ろうとしていた桜は途方に暮れていた。
部活を終えて帰宅するはずだった自分は、天気予報ですら予想していなかった豪雨に、どうしたらいいかと暫し考え込む。
兄は既に自分の予備の傘を持ってとっくに帰路についているはずだ。
こんな自分の事などすっかり忘れて。
恐らくは既に校内には誰も居ない。
恋焦がれる相手すらも、もうきっとこの場には居ない。

どうしよう、と内心では不安に感じるも、このままでもいいか等と妙に自暴自棄な関心がない感情を浮かばせていた。

「お譲さん、もし宜しければ一緒に帰りませんか?」

仕方ないから教室に帰ろう、と再び下駄箱に戻ろうとすれば、突然自分の目の前に黄色い傘が差し出される。
目をぱちくりして桜がぽかんとしていれば、それを差し出した人物に更に驚いた。

「なんてね。」
「…姉、…白野、さん。」

ぺろっと僅かに舌を出して悪戯に笑う彼女。
自然と口から出てしまいそうになる言葉を覆い隠して、咄嗟に彼女の名前を呼び直す。
その一瞬の内に彼女の表情がやけに悲しそうに歪んだのは、気のせいか否か。

「私も生徒会でちょっと遅れちゃってね。」
「そう、だったんですか。」
「一成君を先に送り出したはいいけど、色々手間取ってたら遅くなっちゃって。」
「…大変ですね。」

特に断るような意味もなく、仕方なく彼女の傘に桜が身を寄せれば、白野は嬉々として喜んでくれた。
しかし、帰り道に何回か話しかけてはくれるものの、桜はそれに前向きに返すことは出来ず、ただ曖昧に相槌を打つのみになる。
笑みを向けてはいるけれど、何処かそれはぎこちない。
逸れは恐らく彼女も気づいていることだろうと、桜は察していた。

「(この人は、どうして私に声をかけてくれたんだろう。…哀れんだのかな。)」

たった一人で居る自分を可哀想にと見下したのだろうか、等と胸に一瞬暗い影が落ちた。

恐らくは彼女は今充実感に満ちていることだろう。
彼女の傍には父も母も居なくとも姉が居る。
姉が居なくても衛宮先輩が居る。
そうでなくとも他にも見渡せば彼女には様々な人が居る。
羨む事は無い。羨む事すらも、勝負する事すら無駄だと思わせてしまう圧倒的なその魅力で。
流石姉妹。流石、遠坂を離れた自分とはまるで違う輝かしい二人。

「…白野さんが幸せになれる事は一体なんですか?」

唐突に、ふとそんな脈絡の無い愚かな事を尋ねてしまっていた。
決定的に立場が違う自分達では、一切とて交わる事はないと言うのに。
姉は、もとい、白野は唐突な桜の質問にきょとんとし、軽く首を横に傾げた。
暫く黙り込んで、そして考え込むと彼女に向けて笑顔を飛ばす。

「そうだね、私が今一番幸せになれるのは桜のお料理を食べる事かな。」

その口から出た発言に、僅かに桜の心が揺れ動いた。
え、と瞼を瞬かせて、桜は彼女をじっと見つめる。
しかし動揺して直ぐに視線を逸らしてしまった。

「…お、料理なら、私じゃなくても遠坂先輩が上手です。先輩なんて、もっともっと、上手です。」
「士郎君のお料理も、凛のお料理も美味しいけど、それ以上に私は今桜のお料理を食べたいな。」

だってずっと味わえなかったんだもの。
そう口にする姉に、桜は絶句して暫し口を半開きにした。

「わ…私の、なんて、美味しくないです。
全然つまらないし、くだらない。ちっぽけで、味気も無くて、なんにもない、ただの、そんな、…ただの、」

貴女には見渡せば自分ではなく他の幸せがあるじゃないか。
すぐそこに求めれば分かってくれる温もりがある。
だから別に、自分なんて。自分なんかにちょっとした慈悲を見せなくてもいい。自分なんかに同情してくれなくても、ただの石ころになんて、僅かの愛をくれなくても。

「それでも、私は桜がいい。」

けれども彼女は真剣に、そして力強くきっぱり言った。
その声色はもう一人の姉である彼女とはまったく違うものであるのに、一瞬彼女かと錯覚させてしまうほどの押しの強さがあり、桜の中で強烈にその言葉が根付いた。

「……い、いの?……わたし、なんか、で」

姉は孤高で、常に手の届かない場所に居た。
もう一人の姉は自分に振り返ってくれたけど、手は差し伸べてくれなかった。
姉達とは結局あの時点で、もう自分とは係わり合いが無いものだと思っていた。

「桜がいいの。」

けれどそれは両方とも勘違いだった。
いつも姉は傍に居てくれた。二人の姉はいつも自分の両端に居てくれた。
自分が少し歩み寄れば、彼女達は直ぐに振り返ってくれたのだ。

そんな事すらもいつの間にか分からなくなって、年月が過ごすうちに彼女達が遠くなってしまったと嘆いていた。

なんて馬鹿らしいことだったのだろう。
なんてふざけたことだったんだろう。

彼女達は直ぐそこにいたのに。

「私、姉さんの…白野姉さんと、凛姉さんの好きな食べ物、作っていいですか?」

こんな穢れてしまっている手で、最早貴方達の妹とも呼べない掌で、それでも貴方達を姉と呼んでも、歩み寄ってもいいですか。
その答えにまるで答えるかのように、彼女は自分の手を掬い上げて握り締めてくれた。

「お願い、桜。」

◆求める幸せ、求められる幸せ

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