睡眠時間

□ジェンガの崩れる音がした
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ぼーっとしていたら、べしんと額を叩かれる。
何処か遠くに行っていた意識が一瞬の内にこの場に引き戻され、幾度か瞬きをして現状を把握。
したのちに、驚き半分で面を上げればそこにはいつだかの喫茶店で出逢った服装とまるきり同じの男装服を着ている華南が居た。

「…なん、」
「また変な事考えてたろお前。」
「… 別に」
「嘘だね。ばっちり顔に出てんだよ。」

冠葉はやっと此処が家でないことに気付いて、冷静さを取り戻しながら不意に顔を背ける。
何なら今目の前に鏡を持ってくるかい?と軽く笑う華南。
一度ぎろりと強く睨んでみるも、彼女は少しも揺るがなかった。

本音を言うと別に、なんて事は無かった。
実はつい先程まで意識を飛ばしていたのも、最近は何もかもが疲れることばかりで自分はほとほとどうしようもない位に打ちのめされていたから現実逃避をしていたのだから。

どうせ考えた所で、逃げ場なんて何処にもない。あっても逃げ込めるはずもないのに。
そんな風に頭の中では冷静に理解している。
けれどもわかっては居てもやはり苦しい事は確かにあって、確かにその苦しさに苛まれて無意識に何処かに逃げ出したくなるのだ。

でも、それを吐き出せる部分なんて無く、吐き出したところで完全に自分の悩みが解決されることはないから、結局ただ迷路をぐるぐるするだけ。

冠葉は彼女から眼を逸らして、何事も無い振る舞いを見せた。

「本当に何もない。」

冷たく彼女に言い放つ。
だって、姉には言いたくても言えるはずが無いから。
出来るならば何もかもを明かして彼女に総てぶつけたいけれど、でも今外で働いているので精一杯な彼女にはこれ以上金銭面でも陽毬の事でもあらゆる事でも迷惑をかけたくはない。
それは彼女に対する思いやりなんかではなく、半ば自分の意地。
女に迷惑をかけたくない、ただの安っぽい男の自尊心だ。
彼女を支えるならばいざ知らず、甘ったれな部分を見せて幻滅させたり、子供だと思われたくない。

だから一人でも俺は大丈夫だからと自分を騙し、彼女をあえて遠ざける。

なのに姉はその自分に余計に心配になったようで、少しもその場から動こうとしない。
暫く何か言いたげに黙っていた華南が、間を空けてわしゃわしゃと此方の頭を撫でてきた。
決して乱暴ではなく、かと言って優しすぎるわけでもなく。

「言いたくないなら無理して言わなくていいよ。
いつでもお前の話なら聞いてあげる。」

柔らかなその声色に一瞬時が止まったような錯覚を起こす。
瞬きをする事すら忘れて華南へと徐に視線を向ければ、そこには穏やかに自分を見つめる、姉とは思えない誰かが居た。
どきりとした。
確かに彼女は姉なのだ。けれども決していつもの華南ではない。
そんな見紛いをしてしまう程自分は可笑しくなっているのだろうかと、暫く彼女の顔を目をぱちくりさせて見ていれば、華南が僅かに開いている自分の隣に座り込んだ。

「お、ま…し、仕事はっ、」
「お前はそうやって心底自分が辛い時は黙って無理するからねぇ…」

此方がぎょっとして声を荒げて振り返るも、彼女はそんなの全く気にしたことはなく、ただ真っ直ぐに自分を見つめてきた。

「折れるまで無理するから、放っておけなくなるんだよ。」

やがて、華南の額が自分の額にこつんとぶつかる。
いつか自分が晶馬にやった事のあるそれ。
やる方とやられる方では気持ちが違うんだな、と何処か冷静に思いながら自分は息を呑む。

どうしてそこまで自分を視野に入れてくれるんだ。
自分だって生きていくのに精一杯の癖に。
自分の方が社会で生きて行く為に涙を幾ら飲んだかわからないくせに。

「そんなの、華南の方だろ…」
「私は何てこと無いよ。だってお前達が居てくれるから。
そして、…お前が私の代わりに頑張ってくれるから。」

本当になんでもないようにさらっと言う華南に、不意打ち過ぎて軽くぽかんとしてしまう。
華南は、笑みを交えて話した。

「私が家に帰らない駄目な姉貴でも、あの家で陽毬と晶馬が笑っていられるのはお前のおかげなんだよ冠葉。

感謝してる。
でも同時に、凄く申し訳なくなるほどお前に負担かけさせてるなって理解してる。
何も出来なくて悪いと思う。
口で言っても今更感たっぷりだけど、でも、本当にお前の存在に救われてるんだ、私。」

一句一句、優しく此方の耳に囁く彼女の言葉。
そして、一瞬悲しげに笑うその表情に、なんだか自然と泣きたくなるような、何かが込み上げてきそうな気持ちが沸きあがって下唇を噛み締めた。

「……華南。」
「だから、お前も私に頼ってよ。
…頼らなくても、サンドバック的な愚痴相手位には使って。」

柔らかいその言葉にひと時、胸が高鳴った。
けれども吐き出しかける何かを抑えて、ぐっと飲み込む。

「……なあ、わがまま言っていいか?」
「なんだい?」
「…今日、一緒に帰りたい。」

それはまるで子供のようなお願い。
けれどもその些細な一つの願いを出すのに、自分はどれだけ勇気が必要だったか。

「いいよ、待ってな。早く帰るようにするから…」
「いい。いつでもいい。ずっと待ってる。」
「……そう。」

悩みは一切消えることは無い。
苦しみから逃れたわけでもない。
何も出来ない絶望感が失われたわけでもない。
無力さも、辛さも、なにもかも。
何一つ解決せずに総てが総てそのままだ。何も変わらない。
先程の言葉も優しさも、ただ傷口を多少撫でただけのただの気休め。

けれどもそんな子供だましな気休めが、今の自分には必要で、こんなにも大分救われるものだったなんて思わなかった。
自然と表情を緩めてふっと肩の力を抜かせた。

ああ、大丈夫だ。俺はどうやらまだ笑えるらしい。

窓に映る自分の不恰好な笑顔を見て、なんだか酷く安堵した。

◆早く一緒に帰りたい


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