夢幻時間

□泥濘から見る空
1ページ/2ページ


薄汚い汚泥の中を這いずり回って、虎視眈々と憎い相手の顔に泥を塗る時を待ち望む。
まさに下水道の中で這いずり回り、足掻き、もがく溝鼠と大差ない。
否、最早自分が溝鼠だ。
自嘲するかのように笑いを浮かべて、体力を使い果たした雁夜はそのままその場に倒れこんだ。
彼的には着地した、と言う言い方が正しいのだ。
だが、身体に上手く力が入らず結果として四肢を冷たい地面に投げ出すと言う事しか出来なくなっていた。

見上げればそこには冷たい空気を纏う黒く青い甲冑の騎士。…騎士である従者。

「……桜ちゃんを、」

救わねば。
ただそれだけ、その使命に取り付かれて間桐雁夜は身体を動かした。

しかし正常な思考を持っては居ない狂戦士でも「桜」と「葵」という名前が雁夜にとっては非常に重要な意味を持つものだとは理解しているらしい。
此方がその名を出せば、僅かなりとも反応はした。
あるいは本能的に察しているのか。その意味は深くは分からない。

雁夜は口元に残った血を拭いながら、青黒い騎士をぼんやりと眺める。
忌々しさと、頼もしさと、あらゆる感情がない交ぜになって複雑になる。
最終的には彼が居ないと自分は何も出来ないのだから、と理解して雁夜は腹這いをして冷たい地面から温度差の変わらぬ壁を求める。
上半身を動かし体を投げ出すようにして、ごん、と頭が冷たい壁に衝突するが、痛みは感じない。
感じたとしても、それ以上の激痛が常に身を蝕んでいる為に数に入らない。
改めて壁に寄りかかり体重をかけると、一息を吐く。

「…は、あ………」

ただ少し息を吐くだけなのに、それでもそれすらも億劫になるほどの脱力感。
肉体的に力が尽き掛けてその様な錯覚を得るのか、あるいは気分的なものからそうさせるのか、雁夜には判断できなかった。

静かに彼が唸り声を上げた。
地の底から響くような地響きに近いその震える声。
しかし、普段感じるような薄暗い狂気は感じ得なかった。

「…ん、だよ。」

狂戦士はじっと雁夜のほうを眺めたかと思えば、直ぐに顔を頭上へと向けた。
雁夜は不審に思い、眉間に皺を寄せつつも重い頭をゆっくりと上に持ち上げる。
翳む視界には暗闇しか映らずに居たが、やがて目が慣れてくればそれ以外のものがちかっと瞳に映った。

一度瞬きをして、雁夜はやっと視認する。
雁夜と狂戦士の頭上には降ってきそうなほどの星が煌いていた。
筆舌に尽くしがたいその美景に雁夜は言葉を失いかけた。
なにせその光景はかなり久し振りに見るものだったのだから。

これまで、こんな身体になるまで美しいと感傷に浸る余裕すらも今までの雁夜にはなかった。
そもそもに、頭上を見上げるというだけの行動もまともにする事はなく、そして見上げるという行為をしてからもその目に決してこのような光景は映らなかった。
その上、目に焼きついていたのは薄暗い地の底で泥に塗れた嘔吐と吐血を繰り返し、汚泥のような酷い景色ばかり。
だからこそ、こうして認識している今この空は……なんて久し振りで、なんて尊いと、雁夜は改めてそれを感じた。

もしもカメラがこの場にあれば、それこそ一枚撮っておきたくなるほどの美しい夜空。
こんなに穏かに星空を眺めたのは一体どのくらいの事だろうか。
否、今でも決して穏かと言う訳ではないが、少なくとも頭上の星空のおかげで多少なりとも心の鉛は掻き消えた。
同時にその胸には暫し感じ得る事が出来なかった僅かな平和が灯る。
すると、頭上を眺めていたはずの狂戦士は、くるりと雁夜に向いて、そのまま物言わずに硬直した。
ふう、と自然と雁夜は息をついて、その頬に伝う雫にやっと気付く。

だが、その意味を気づく事は、雁夜には今は出来なかった。

◆束の間の安堵
次へ

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ