夢幻 時間

□完膚なきまでの敗北の味
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彼が彼女に好意を抱いたのは、単純に大変だった場面を助けてもらった事がきっかけだった。
なんてことは無い。よくある恋愛の始まりの理由だ。
けれども彼にとってはそのきっかけが無ければ未来永劫彼女の人生と係わり合いにならなかっただろうし、彼女に関わったからこそ、彼の中の恋愛価値観と言うのがやっと理解できた重要な出来事であった。

多分彼女にとってはそれはとても当たり前の事で、忘れたって不思議ではないちょっとした行動だったに過ぎないのだろうと、彼は内心では思っていた。
けれども彼にとってはそれは如何でもよくて、ただ単純に今自分が彼女に対して好意を抱いているという事だけが重要視されていた。
毎日すれ違うだけで、ただそこに居るだけで、笑ってくれるだけで、
それだけの事で彼は一日が激しく嬉しく、楽しく思えるようになった。

まるで彼が馬鹿にしていた絵本や御伽噺に出てくる恋に恋する少女のように、絵に描いたように舞い上がっては一人恋への至福を感じていた。

他者から見れば彼女へ向ける好意は一目瞭然であり、寧ろ見ていて呆れるほどのものだった。
口を開けば彼女の名前。
視線を向ければその先には彼女。

総てが高倉白野に支配されていたのだから。

けれども常に何処か一点を見つめている彼女にとっては、そんな好意にはまるで気づく事はなかった。
口を開けば兄弟の名前。
視線を向ければその先には知らぬ誰か。
彼が高倉白野に支配されているのと同時に、彼女の心は既に家族に支配されていたのだから。

だから彼は、遂に耐え切れなくなって彼女に思いの丈を打ち明けることにした。
それが例えどのような結果を産もうとも、例え何から疎まれようとも。
それでも彼にとっての世界の中心に等しい人は彼女だったのだから。

「あのさ、白野さん。」
「ん、どしたい。」
「…ちょっと話あるんですが。」
「おお、仕事の方?いいよ。」
「じゃなくて……あー、その……、」
「なんだい。…さてはミスった?」
「いやいやいや、まさか。流石に、それはもう、ないです。」
「そっか、それならよかった…」
「ご心配お掛けしまして。…。じゃ、なくて、ですね、はい。」
「うん?あ、ごめん。話の腰折ったね。」
「はい。あ。いえ。……ええと、ですね、俺……その、」

彼が彼女に口を開き、本題に入ろうとしたまさにその時だ。

「白野、」

途端、第三者が二人だけの世界を作り上げていたその場所に、遠慮なく立ち入って首を突っ込んできた。
突然の重低音で彼女を呼ぶその声に、一瞬で男のものだと分かった彼はあらゆる意味でぎくりとする。
強制的に話を中断させられ、彼は言おうとしていた大事な事を再び喉の奥へと戻した。

「白野、迎えに来た。帰るぞ。」
「冠葉。」

振り返った彼女がその少年の名前を呼び、少年は静かに、けれども堂々とした足並みで一直線に彼女へと近づいた。
そして彼の目の前で、遠慮なく彼女の手を我が物のように引っ張り握り締める。
白野は目を丸くして驚いていたようだったが、決して嫌がる素振りは見せず。
そればかりかその相手に直ぐに気を許したような様子で、視線を和らげた。
その一瞬で、彼女の瞳の色の変化に気づいた彼は息を呑んだ。

……まるで、彼には一度も見せた事の無いその顔に驚いたのだ。

「なんだい冠葉。待ってろって、」
「煩いな。遅くて待ちきれなくなったんだよ。」

彼女が諭すように言う言葉を、その少年ははっきりとした口調で切り捨てると、此方を一切向くことも無く、寧ろ此方を空気として扱いながら、毅然とした振る舞いで彼女を自分の隣へと誘導した。

隣に並ぶその様が、一瞬お似合いだと錯覚する。

その際に初めて少年から存在を認識され、ぎろりとはっきり敵視された。
彼女が彼に困ったように配慮の言葉をかけてくれるも、彼はそれに曖昧にしか返す事しか出来ず、果てにはその時彼女に放ったましてや言葉すらも忘れてしまって一瞬で彼の総ては真っ白に塗りつぶされた。

現れた少年の存在によって。

彼は先程の視線だけで気付いてしまったのだ。
自分が彼女に少しでも近づこうとする事は、ほぼ無謀に近いことに。

だって彼女に手を出す事は、要するにあの少年を敵に回す事だ。
…それは多分自分には荷が重過ぎる、と臆病風に吹かれてしまった。
なにせもしも彼が狼であるならば、あの弟は確実にライオンであったのだから。
それほどの力の差を感じてまで獲物を狙おう等と流石に思うだろうか。
否、一度は彼も思いかけた。
彼の想いはそんな簡単に失せるものではなく、確実に熱く焦がれていたものだったのだから。
しかし、彼と共に去って行く彼女の姿を見た途端、それはきっと絶望的であろうと悟って自信が喪失してしまったのだ。

彼女があまりに自然に、彼と手を繋ぎ合わせて、あまりに見たこと無い安らかな顔で彼に笑いかけたのが見えたから。

あれを作り出せるのは自分ではない、と名残惜しくも理解してしまった。
そう彼が納得してしまった瞬間に、止めを刺すようにして少年の意地の悪そうな笑顔が彼を射抜く。

彼は、人生で生まれて初めて、完全敗北と言う言葉の意味をきちんと知った。

◆「思い知ったか、ただのモブが。」

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