泣き笑い道化師

□壊れてしまえ時間など
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「え?水族館?」

朝ごはんが終わり、さて食べ終わった食器を洗いますか、とスポンジに泡をつけて、汚れた食器に立ち向かったその僅か数秒後。
エプロンに入っている携帯に絶妙のタイミングでかかってきた電話は、真隣にいる幼馴染で、愛しの彼女からのものだった。

「うん、今日は陽毬デーだから行こうかって話になったの。」

突然のお誘いに少しばかり吃驚しながら、肩と耳に携帯を当ててふんふんと話を聞く。

「おお、よかったじゃん。ひまり、水族館久し振りだったよな?」

電話口の明るい声が、心地よく耳に響いて通る。
少しばかり水道を細めにして、彼女の声が聞こえる様に配慮しながら皿に手を掛けた。

「そうなの!…それでね、陽介ちゃんも一緒にどーかなって。」
「え?…どーかなって…なにが。」

えっへんと元気のいい声でひまりが笑い、それに連れて、自分も笑顔を浮かべる。
泡立ったスポンジで皿の油汚れを落としながら、ふとスポンジがそろそろ悲鳴を上げている事に気づく。
そうして思考を別の所に飛ばしていれば、「だから」と強気な抑揚で彼女が声を大きくする。

「陽介ちゃんも、一緒に、水族館。行かない?」

きちんと此方に聞こえるように、はっきりと、けれどもゆっくりと一区切りして、きちんと疑問系で此方に訊ねてくるひまり。

内心、やっぱりか。と思って少し焦り、けれども話をはぐらかさずにきちんと問い掛けてきた事に本気なんだなと思って苦笑した。

声には出さずに心の中で少しうーんと唸る。

別に今日は用事もないし、愛しの彼女の誘いを断る理由なんて何処にもないし、そもそも彼女にベタ惚れしている自分がその誘いを断るなんて事はありえない。
その為、迷う事はないはずなのだ。

だがしかし、問題はと言えば、彼女自身でも私情でもなんでもなく、彼女を溺愛している二人の兄の事であり。
ただでさえ彼女の彼氏として目の敵にされている自分としては肩身の狭いものが合った。
中でも長男の冠葉については、ひまりに対して滅茶苦茶溺愛している節があり、弟以上に自分の事を目の敵にしている所があって、幼馴染なのに内心あまり彼に逢うのがはばかられる部分があった。

それに、ひまりの事だ。
自分と兄が仲が悪いと思えば、折角の水族館なのに此方に気を使って本気で楽しめるものも楽しめなくなってしまうかもしれない。
そうなると本末転倒の上に、彼女を愛する彼氏としては失格だ。

だから、ここは自分は身を引いて、あの仲のいい兄弟妹三人で、思い出の地を巡るのが良い事なのかもしれない。と考えていた。

「…だめ?陽介ちゃん。」
「………いいよ、行く。」

だがしかし、愛しの彼女にしゅんとした声色でそんな事を言われてしまえば、否定をする事が出来なくなって自然とそう口にしてしまった。

あ、やばい。とは思ったものの、電話の裏側で「やったあ」と声を張り上げる彼女のはしゃぎようを思えば、なんだかどうでもよくなってしまった。

「(俺、本当にひまりに毒されてるな…悪くはないけど。)」

はあと溜息を吐きながら、排水溝に流れていく泡をぼうっと眺める。
見れば手が付かなくなったまま放り出されている食器の数々。
すると、追い討ちをかけるようにひまりが「それじゃあお気に入りの服着て、待ってるからね。絶対だよ」と言ってきて、まんざらでもなく少し笑ってしまった。

「ねえ、陽介ちゃん。」
「うん?」

今度はなんだ。と言いながら、今度こそ手を動かして漸く二枚目の皿にスポンジを当てる。
彼女は少し間を開けた後に、優しげな、けれども儚げな声でこう言った。

「いつか、私達結婚しようね。陽介ちゃん。」
「…」

一瞬、自分の中の時が止まる。
突然に言い放ってきた彼女の言葉は、あまりにも唐突で、けれども恋人としては当たり前の一言で、自分はそれにどう返せばいいのか迷ってしまった。

もしもこれが、後5年くらい前の事で、自分も彼女も何も知らない子供時代の時だったら、素直に「うん」と言えたのに。

彼女に残された時間が残り少ない事を知っている、今の自分では「いつか」という話がとても重かった。

「……そう、だな。」

口から出たのはそんな色気も愛情も飾りも素っ気のない一言で、自分でも分かるくらい明らかに返答に迷う動揺の色が見える声だった。
けれどひまりは追求はしないで、ただ柔らかな声で耳を刺激する。

「あのね、私、陽介ちゃんのこと大好きだよ。」
「…うん、俺もひまりの事世界で一番大好き。」

今度は迷わずにきちんと、さらりと言うと、少しだけ間を開けて彼女が恥ずかしげに「もう」と力なく言った。
そんな反応を楽しみながら、なんだか自分まで恥ずかしくなってくすくす笑う。

花のように笑う彼女。

声が震えていないか心配だったが、ひまりの様子が変わらないことからすると、どうやら大丈夫だったみたいだ。

「…なあ、いきなり、どうしたんだひまり。」

「なんとなく言いたくなったの。…彼女が彼氏に愛を語ったら、だめ?」
「…ばか。嬉しいよ。」

それこそ、涙が出るほどに。
ずきんずきんと胸の鼓動が強く激しく鳴り響く。それと同時に鼻の奥がつんとして、目頭がとても熱くなった。
うっかり下を向きそうになってしまって、慌てて持っていた皿を放って手の甲で鼻を押さえる。
可愛い彼女の嬉しそうな声が耳の奥を刺激した。

「でも、今のはお兄ちゃん達には内緒ね?」
「言えないよ。言ったら俺が殴られるもん。」
「そんな事ないよー。」
「はは、…」

小さく鼻をすんと啜れば、聞こえていたのか「陽介ちゃん?」と心配げにひまりが声をかけてきた。
慌てて、少しわざとらしい大きなくしゃみをして、今度は聞こえるように鼻を啜る。

「あーっ、風邪でも引いたかな…さっき朝シャンしたまま髪拭かなかった。」
「ええっ?ダメだよ、そんなんじゃ!ほら、待ってるから早く拭いて拭いて!」
「いや電話切らないと拭くのもままならないんですけど…?」

まるで傍にでも居るように、すぐそこにでも居るように、甲斐甲斐しくこちらの世話を焼く彼女に今度こそ普通の笑みが零れた。
その後適当に二、三言葉を交わして、「じゃ、なるべく早く行くから」と此方から話を中断した。
あまり長く話していても彼女の兄貴、特に冠葉に睨まれる。それに後で逢うのだからそれを楽しみにしようじゃないか、と考える事にした。

「(本当だったら、何時間でも、何日でも、一生でもひまりの傍にいたいのに)」

電話を切って、ふとそんな気持ちが沸いて来る。
冠葉はいいな。晶馬はいいな。兄弟だから、いつもひまりの傍に居られる。
いつもひまりを見ていられる。
どんな理由を取り付けなくたって、彼女の傍に居てもいいんだ。

兄弟に嫉妬するだなんて、浅ましいとは勿論自分でも理解している。
馬鹿だとも、そんな事を考えても仕方がないとも。
だがしかし、ひまりにはもうそれだけの時間がないと知っていたから、一分一秒でも傍に居たいと思って止まなかった。

ふと脳裏に先程のひまりの言葉が甦る。

『いつか、結婚しようね。陽介ちゃん』

「……いつか、っていつだよ。」

先程耐えた涙が、思わずぼろりと零れて排水溝に落ちた。
まだ残っている洗物の数々を見ようとすれば、じんわりと視界が滲んでなにも見えなくなる。
ぐっと奥歯を噛み締めて、濡れた片手で目頭を押さえた。
ふと脳裏に浮かぶのは、ただひとり愛する人の笑顔だけ。

もしも明日。いや、一分後。いや、一秒後に。
自分とひまりが結婚できる年齢になっていればいいのに。

ひまりはまだ13歳。
自分はまだ16歳。

お互い正式に結婚できる年齢にはまだ程遠い。
自分達にとっては、遠すぎるのだ。その時間は。

ひまりにとって、一日生きるのでさえ綱渡りのひまりにとって、それはあまりにも遠すぎて酷過ぎて、歩いていくには危なすぎる。
未来が見えない、わからない。いつひまりが自分の傍から居なくなるかわからない。
わからないから、いっその事一生このままで居て欲しい。

今日と言う日が動かなければいい。
明日と言う日が来なければいい。
後ろ向きな考えだと分かっていても、彼女を失う恐さが自分の前を見えなくしていた。
逆を言えば、それほど自分にとって高倉陽毬とは大きな存在なのだ。

運命なんて廻らなくていい。一生このままで居ればいい。
一生、ひまりの笑顔がそこにあって、一生彼女の傍で笑える自分で居たい。

◆時間よとまれ、おねがいだから

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