泣き笑い道化師

□奴隷の鎖は放たれない
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まるであれは夢のような出来事だった。
否、あの時の事は夢に違いないのだ絶対。

自分は今隣に居る彼女が愛しいあまり、夢の中で妄想まで見るようになってしまった。
所謂妄想癖が強い男になってしまっただけなんだ。

でなければ、あんな少々過激な格好をした陽毬に散々口汚い言葉を吐かれ、その上無理矢理唇まで奪われたなんて出来事万に一つも有り得ない。

あれは決して陽毬が悪いのではなく、妄想した自分が悪いのだという事にした方がかなり陽介にとってマシだった。
例え現実であろうともなかろうとも、今の陽介にとってはあの出来事は衝撃的過ぎたからだ。

思わず無意識に物憂げな溜息をひとつ零す。
すると真横で雑誌を読んでいた陽毬がきょとんと首を傾げて陽介の名前を呼んだ。

「陽介ちゃん?」
「…え、…あっ、うん、なにひまり?」

ふと、今更になって自分が何処に居たのかを思い出した陽介は引きつった笑みを浮かべて彼女に振り返る。
すると、陽毬は実に不機嫌そうなしかめっ面を浮かべて、暫く陽介を睨んだ後に「なんでもない」と視線を背けてしまった。

「ひ、ひまり?」

むすーっとしてあからさまに視線を合わせようとしない彼女に、陽介はすぐに彼女のへそを曲げてしまったことに気づいて声をかける。
だが、陽毬は反応をせずに持っていた雑誌で顔を隠して完璧に陽介から背を向けてしまった。

「陽介ちゃん…なーんかとってもつまらなそう。」
「え、」

ぽつりと陽毬の丸まった背中から流れた声に、陽介は目を丸くして陽毬を見る。
陽毬は微妙に此方に振り返ると、すぐにふんっと口で言って再び顔を背けた。

「だって…折角のおうちデートだって言うのに、陽介ちゃんってばなんだか陽毬がどうでもいいみたいなんだもん。
さっきからぼーっと考え事ばかりしてるし、私の話も全然聞いてくれないし…

もしかして、私の事飽きちゃったの…?」

細々と不満を語っていく陽毬に、陽介は少し胸が痛くなってうっと声を詰まらせる。
確かに考え事をしていたのだが、よもや彼女に不安を抱かせるまでとは思いも寄らなかった。
しゅんと肩を竦めていつになく弱気な事を語る彼女に、いつもなら飽きるなんて言葉一体何処でと突っ込む陽介も、ぎょっとして慌てて否定をする。

「ばっ…違うよ、俺はひまり一筋だ!」

そんな事なんてあるわけないだろ、とその肩に手を伸ばそうとした陽介。
すると、陽毬は振り返ってにんまりと微笑み、ちょんと陽介の鼻先に指をつけた。

「なんてね。嘘。」
「え?」
「本当は、陽介ちゃんにそういってもらいたかっただけなの。」

その言葉を待っていましたかと言いたげに、陽毬は先程とは打って変わって満足そうな雰囲気になる。
陽介は、陽毬の変化に軽く面食らった。

「だって陽介ちゃん、ずっとテレビのお姉さんのほうばっかり見て私のほうは見ないんだもの。」
「……あ?」

ぷくーっと頬を膨らませる陽毬。
そんな彼女に言われてふと今さっき自分が見ていた視線を辿れば、そこには確かにテレビがあり、中では優しそうなニュースキャスターがころころと表情を変えて動き回っていた。
どうやら無意識ながらに自分は先程までそれを眺めていたらしく、それが陽毬の不満の原因だったようだ。
あっと声を上げた陽介に、「それにさっきはこの雑誌のアイドルにも目を移してたし」と今度は表紙になっているグラビアアイドルを指差して、更に陽毬はふぐのように頬を膨らませた。

「そんなに他の女の子ばかり見てたら、流石の私だって嫉妬しちゃうんだから…」
「い…いやいやいやっ、違う!全然違うんだって!それはひまりの勘違いっ。
俺はこれっぽっちも誰かの事なんて見てないし、それに、そのっ…さっきまでずっと、ひまりのことを考えてたんだから…」
「えっ?」

すると、陽介をじっと睨んでいた陽毬がきょとんと目を丸くする。
陽介は真剣に必死で否定すると、半分本音をオブラートに包んで話す。
「いや、あくまでも夢にひまりが出てきたことで」とすぐに付け加えながら、陽介はやや俯いて頬をかいた。

「勘違いさせた事はその、本当にごめん…だけど、俺は本当にひまりしか見てないことは間違いないから…
っていうか!長年片思いしてたのは俺なんだから、陽毬に飽きるなんて事有り得ないだろっ。」

すぐに申し訳なさそうに眉を下げて、素直に「ごめん」と両手をあわせて謝る陽介。だが、陽毬はそんな陽介をぼんやりと見つめて何も言わない。
ふと不思議に思った陽介は少々顔を上げて「ひまり?」と不安げに訊ねた。
その瞬間、陽毬のぼけっとしていた顔は、見る見るうちに真っ赤に変わって忽ち耳まで赤く染まった。

「…違うもん。」
「え?」

すると、ぼそりと陽毬は呟いて唇を尖らせた。

「……ずっと片思いしてたのは、陽毬の方なんだから……」
「え、」
「…なんでもないっ。」

忽ち、花のように朗らかに微笑を浮かべる陽毬。
陽介はどきりとして軽くどぎまぎしてしまう。
と、そこまで真っ赤になって語った後、陽毬は突然糸が切れた人形のようにぱたりと啓介の胸に飛び込んだ。
陽介はてっきり、また陽毬が倒れたのかと思って声を荒げて肝を冷やす。
だが、胸の中から聞こえたくすくすと言う笑い声に身体を和らげた。

「陽介ちゃん、だいすき。」

そこにはいつもの様に優しく愛を語る陽毬が居て、陽介は少しばかり頬を赤く染めて照れ臭そうにはにかんだ。





「俺は陽毬一筋だ、なあ?」
「……」
「言いながらこうして他の女に足蹴にされるなど、ちゃんちゃら可笑しい事じゃないか、なあ奴隷?」
「…かえりたい ひまりの元に」

ついさっきまで自分は陽毬と一緒に甘く幸せなひと時を過ごしていたはずだったのに、どうして突然こんな事になってしまったのか。
四つん這いになってプリンセスの椅子となっている陽介は、再度此処に訪れてしまった事に途轍もない敗北感を感じた。

「おいおい早速泣き言とは、流石チェリーボーイだな貴様は。
もっとこの状況を楽しんだら如何なんだ?童貞にはこんな密着、咽び泣くほどの感激だろう?」
「咽び泣くって言うか…、別の意味で泣きたいよ俺は。」

正直この体制は物凄く辛い事に変わりはないのだが、それでも陽毬の体重が軽かったのとこの姿勢では陽毬の顔を見なくて済む事に陽介は非常に安堵していた。

「ふん、よく言うわ。本気で嫌なら抵抗しろといったろうに。」
「言ったって…それ前回の事…ってか、まさか前回のまだ続いてたのか?」

相手に聞こえるように溜息を吐いて、やや強気に投げ掛ける。
すると愉快そうに笑ったプリンセスが「なんだわかっているじゃないか」と背中を叩いた。

「よもや貴様、あの程度でこの鬱憤が晴らされたなどと思っていたんじゃないだろうな?だとしたら大いなる勘違いだぞ。
あの程度で癒されるくらいの鬱憤だったら初めから貴様のような下等生物に八つ当たりなんてしない。」
「あ、八つ当たりって認めるんだ。」
「あァ?」

ぴくり、と陽毬の眉が僅かに動き、桃色に輝く瞳に影を落とした。
陽介は頭上から降ってきた彼女の低い声に、ぎくっとして身体を強張らる。

「…まずはその口から粛清するのがいいようだな…」
「どうぞ俺でよければ幾らでもお怒りをぶつけてくださいませプリンセス様!」
「60点で許してやる。」

踏ん反り返るお姫様に、奴隷になった男はありがとうございますと丁寧に深々と頭を下げる。
だが内心では勿論ぐったりしていたのは言うまでもない。

「しかし案外人間椅子というのは心地よくないな。
硬くて背凭れがなくて非常に不具合だ。」
「勝手に人を人間椅子にしといて自由な事言ってくれる。」
「なんだ?案外悪くないという顔をしていたお前に言われたくはないなあ?」
「…(それはひまりの身体だから)」」

瞬時に、脳裏には愉快そうに笑う彼女の姿がぱっと浮かぶ。
それゆえに、陽介は何も知らないふりをして黙り込んだ。
余計な事を口にするのはやめよう。
なんでもかんでも彼女に揚げ足を取られるだけだと、陽介はじっと後ろから来る痛い位の視線に耐える。
すると、「まあいい」と意外にもプリンセスはそれ以上深追いせずに、陽介の背中を撫でて別の不満を洩らした。

「しかし本当に心地よくないなこの人間椅子は。」
「じゃあもうやめて帰してくれよ俺を。ひまりの元へ」
「ふむ…おい奴隷。一旦立て。」
「は?」

全くと言っていいほど此方の話を聞かないプリンセスは、陽介の上からひょいっとジャンプして退くと手を上下に振る。
人の話を聞かないことについてはこの際置いておいて、突然の発案にきょとんと目を丸くした陽介は何がしたいんだと立ち上がる。

「お前、そこに座れ、正座でな。」
「…せめて普通にとかは駄目か?」
「駄目だ。」
「はあ、…ちょっと待ってろ。」

今度は何をする気なのかわからないが、正面から彼女の顔を見てしまえば逆らえるわけもなく、陽介は素直に彼女の言う事を聞いた。
よいしょとその場に正座をすると、これで満足かと尋ねる。

「よし。」

にんまりと満足気に笑うと、プリンセスはくるりと一回転して背を向ける。
そして陽介の膝の位置に腰を落として、そのまますとんと座り込んだ。
調度陽介の右肩の辺りに後頭部をつけて凭れ掛かると、おおと歓喜の声を洩らす。
だが、同時に陽介は思いも寄らぬその行動にぎょっとした。

「なっ…」
「うむ、多少胸板が薄くて硬いのが欠点だが、先程よりか断然心地がいいな。」

うろたえた陽介を尻目に、ぽんぽんと彼の膝を叩いて今度こそプリンセスは気分を良くした。

「…あの、プリンセスさん?」
「さん?」
「プリンセス様。コレは一体…」
「いちいち説明しないとわからんのかこの下等生物は、見ればわかるだろう。貴様が椅子だ。」

いやそれはわかる。
そんな事はわかるんだけれども。
自分が言いたいのは決してそんなことじゃない。だが、ぱんぱんと膝を叩かれて胸に体重をかけられれば陽介は何も言えなくなった。
密着する際にふわりと舞った陽毬の髪の匂い。
そして見覚えのある可愛らしい掌。
それらを鼻や目で感じてしまえば忽ち強く出れなくなってしまったからだ。

「ふむ、手摺がないのは少々不満だな。
ペンギン共を横に配置するとするか。」

こういうときばかりは此方の気も知らずに、ぶつぶつと呟いて一人で何かを考えるプリンセス。

「しかしこれでは座椅子に近いな、本来ならば洋式の椅子を求めたい所なのだが…」
「俺に空気椅子をしろってか?」

チラッとわざとらしく此方を一度見つめるプリンセスに、陽介は精一杯不満げに返す。
しかしプリンセスはにやりと笑って「なんだ。そう思うという事はしたかったのか?」と上手に一言。

「(この女、口がへらねえ)」

苦い気持ちを抱きながらも、けれどもこうして自分を椅子にして楽しむ彼女には何処となく可愛げがあって、まあいいか。と陽介は小さく笑った。

「…よし奴隷、次は貴様はテーブルにでもなってもらうか。」
「は?」
「勿論、異論は聞かん。いいか、忘れるなよ?次はブリッジでテーブルだ。」
「…」

次、という事は確実にまた彼女は自分の前に現れるという事なのか。
それが真実であっても虚実であっても。

恐らく陽毬の前に来なければ自分は彼女と逢うこともなくなるだろうと自然と思った。
だがしかし、そんな事なんて出来る訳がない。
だからこそ、自分が彼女と逢うのは恐らく必然だろうなと覚悟した。

すると、自分の首にその細い腕が絡みついて、いつの間にかプリンセスは真っ直ぐに此方に向きかえっている。

「…あ?」
「これは貴様専用の此処への切符だ、有難く受け取れ。」

貴様専用、と言う言葉に一瞬愛する彼女の姿脳裏を過ぎり、目の前の怪しい笑顔に重なってしまった。
ぞくりと背筋にあの時と同じ悪寒が走ったときには既に遅かった。
あっと声を上げるまでもなく、再び唇は彼女の唇に塞がれた。

「ッ……!!!!」

勿論今度は腕に力を込めて彼女を振り払おうとする。
だがしかし、白い指に首筋を撫でられればまたもや上手く力が入らなかった。
やがて重なっていた唇は離れ、自分にかけられていた体重は軽くなる。
それは前回よりも短かったようだった。
はあ、と熱っぽい息を吐いて彼女を見上げれば、プリンセスはくすりと陽介を見下した。

「…やはり、何故か貴様と居ると飽きないな。」

ぺろりと舌なめずりをした女王様に、奴隷は再びぞくりとする。
果たしてそれは恐怖の意味での寒気だったのか、それとも別の意味から起こった感覚だったのか、再度唇を塞がれた陽介には理解できなかった。

◆結局逃れる事は出来ない

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