□蜘蛛の糸に掛かった蝶
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油断した、と思った時には既に遅かった。

常日頃過ごす日常があまりに優しすぎて、当たり前すぎて、白野をはすっかりその安寧に慣れすぎてしまっていた。
聖杯戦争中だという事すらもすっかり頭から飛ばして、ただ日常を甘受しすぎて。

だから、きっと罰が当たったのだ。

帰路に着く間際、彼女は魔術師に狙われた。
それは唐突過ぎる事であり、けれどもいつもで襲ってくるような予測できる事態だった。
甘かったのは自分の認識、恨むのは自分の愚かさだと、白野はまるで獣のような息を吐いて、必死で駆け出し逃げ出した。
目的地なんて分からない。ただそこから逃げなくてはと必死。
けれどもそうした所で、ただの女が自分よりも年上の男の走り敵うわけがなく、間も無く後ろ髪をぐいっと掴まれて、体制を後ろに崩された。
「あっ」と間の抜けたように焦りの声を上げ、頭に感じるぴりっとした痛みに眉を顰める。

すぐに襲ってくる背中への鈍い衝撃。
音を立てて崩れ落ちた身体に冷たい地の上から、痛みがじわりと浮かんだ。
白野は声を押し殺して息を止め、背中の痛みを堪える。
ほんの少しの衝撃だったが咽こみそうになってぐっと歯を食いしばった。
すると、頭上からくすくすと小ばかにした笑い声が耳を擽る。

「吃驚するほど普通の女の子過ぎて、お兄さん困っちゃうわ。
まあ、わるかないけど、物足りないっつーか……いや、ガキに想定以上のものを求める時点でおかしいわな、ははっ。」

にたにたと笑う男の声が上から降ってきた。
白野は我に返って痛みを噛み締め起き上がろうとすれば、気づいたその彼に「おっと」と両手を地に縫い付けられた。

「逃げんなよ、お譲ちゃん。無理ないでもう少しそこで休んでたらどうだい」

走り疲れただろう?と軽い口調の男が自分の上に跨ってにやりと笑う。
その笑みに薄気味悪いものを感じて、白野は嫌悪に顔を歪めた。
上に覆いかぶさってた男は彼女から退きながら、その胸倉を掴んである一点の場所へと放り投げた。
赤い血の色で描かれた、何らかの魔方陣。
その場所へと再びずざっと顔面から地面と衝突させられ、白野の顔には泥がつく。
起き上がろうとすればつかつかと歩み寄ってきた男にその背中を蹴りつけられた。

「はーい、動かない動かない。
安静にしてないと更に痛い目見るぜ。」

先程よりも強く叩きつけられた背中の衝撃に、厳しい痛みを感じる。
その背中に足を乗せてわざわざ痛みを持続させてくれる男は耳元で囁いたあの声と同じ調子で、軽快に声を弾ませた。

「余計な抵抗しない方が良いぜ、この魔方陣相手の魔力を喰らい尽くすから下手な魔術とか使おうと思うなよ?
使ったら余計に苦しむのはお譲ちゃんのほう。
でも発動するのにはちと時間がかかってね。もう暫し此処から動かんでくれや。」

のんびりと間延びした声が胡散臭げにへらへら笑う。
それでも足に入っている力は解かれる事なく、白野は逃れる術がない。

ぐっと身体に力を入れて起き上がろうとすれば、何故か上手く腕に力が入ることが出来ず、逃げたい気持ちはあるのに、それに反比例して体は動かなかった。

気持ち悪い。
唐突に湧き上がってくる胸の内をぐるぐると渦巻く得体の知れない気持ち悪さと、込み上げてくる吐き気に白野は奥歯を噛み締めた。

すっと足を離した男は、白野が動けないのを確認すると、のびやかな声で呆れたように男がこつんと白野の脇腹を足で蹴る。
痛みではなく衝撃が襲って、体が大きく横に揺れた。

「なんか、マジで呆気なさ過ぎて本当にこいつ魔術師とか思うんだけど…。
つか、魔術師であるくせに魔術使わないとか、さてはあんた無能か。
いやー、狙ってよかった、良かったわ。」

饒舌な男は口を休ませる事なく、黙っている此方に勝手に話を投げ掛けては、自己解決を繰り返した。

「小せェ手。」

いつの間に距離をつめてきたのだろうか。
気づけば目の前に近づいていた顔にぎょっとして身を強張らせる。

「あんたこんな手でよく聖杯戦争とかやれるようになったねえ。あ、あれか。身の程知らずって奴か。」

つつっと人差し指で令呪のある白野の手の甲を撫でるようになぞれば、何が可笑しいのかくっくと上ずった笑いを浮かべた。

「なあ、これ俺にくれない?二つもあるならいいだろ。
あんたみたいなガキにはこれは少々重荷過ぎる。」

脳裏には横暴なサーヴァントと、物腰柔らかなサーヴァントの姿が甦る。
確かに自分にはこのようなものは重過ぎるし、二つもある時点で既に欲張りだ。と思う。
そこまでして聖杯を手に入れたい願望も、何もないのに。
けれども、だけど、誰かに渡すにしても、自分の認めた人物なら良い。
アイリスフィールや、時臣や、ケイネスや…、信用してるその彼らが望むのならば自分は素直に二人を明け渡す事を選ぶ。
けれど、素性も知らない誰かになんか彼らを渡す事は出来なかった。
…嫌だ、と白野は間髪入れずに首を左右に振って否定した。

「だろうね。」

男はぱっと手を離すと、最初からその答えを見据えていたかのようなあっさりさで引いた。
だがその直後、驚く間も無く白野の手首に彼の足が落とされる。
感じた圧迫感と、激痛に白野は顔を歪めた。

「まあ、こんな都合の良いもん手放す道理はねえわな、普通。」

上から掛かる手首への重圧で骨がみしみしと軋んだ音を立てる。
それに伴って痛みは増し、顔を歪めれば、比較的穏やかで優しめな声が流れてきた。

「安心しろ、痛みも無い位に一瞬で骨を砕いて千切ってやるから。
痛みで舌噛まないように覚悟しとけ。」

男は先程とは違い、淡々と言うと足を振り上げた。
白野はぞっとして唇を噛み締め、襲ってくるだろう痛みを想像し血の気が引いた。
けれども、もし。もし腕が折られたとしても、それでも切り落とす事さえされなければ、この令呪、ひいては彼らはまだ自分の元に在るだろうか。
その際に、彼から上手く逃げ切って他の誰かに二人を譲れば、そうすれば護られるだろうか。
そんな考えがふと頭に浮かび、白野は彼の言うとおりに覚悟を決めていた。
だが、来る筈の痛みは来ず、彼の足は振り上げられたまま固まっているばかり。
恐る恐ると頭上を見上げた白野は、不思議に思って彼を見た。

「やれやれ参ったね。令呪ってのは使わなくても来れるもんなのか?」

呆れたようにそう話す男は、足を静かに地面に下ろすとちらと肩越しに何かを眺めた。
その何かが一体なんなのか、白野は視認する事は出来なかったが直感で理解する事が出来た。
どくんと一度大きな鼓動の音。
それに合わせて、響く声音。

「我が主から離れてもらおうか、下種。」

一言、低く唸るそれが誰のものか理解した白野は、重い頭を上げて視線だけをゆっくりとそちらへと向けた。
ランサー、と彼の名を呼ぼうとして、けれども声が出ないことにやっと気付く。

槍兵はそんな彼女を一目すると、男目掛けて武具である槍を振り回す。
それを男は一歩後ろに飛んで寸前でかわし、安全を期してそのままもう一歩後ろに飛んだ。
だが、ランサーは追求を逃さずに相手の行動を読んだように一歩踏み出し、槍を突き立てる。

「うおっと。」

軽快な声色を溢しながらもその表情には焦りの色が見える。
やはり紙一重でそれを器用にかわすも、それで精一杯。
無様にも槍が届かぬ一定の距離を保って、男は彼から逃げる。
ランサーは白野の方を一瞥した後に、駆け出す彼を追い詰めだした。
まるでそれこそ狩人と獲物のように。
先程の自分と彼女のようだと男は笑うに笑えない冗談を浮かべながら、辺りをちょこちょこと逃げ回る。

そうこうしてどの位か、彼の手に掛かる前に寸前で逃げる男はやがて白野を背中にして、はあ、と呼吸を乱して一旦そこで足を止めた。
その一瞬の隙を逃すわけがなく、ランサーは立ち止まった彼目掛けて、これ以上取り逃さぬようにと真っ直ぐと槍を放り穿った。

「ばーか。」

へっと下品に笑った男は、待ってましたと言いたげにその槍が自身に突き立つ寸前で、ぴょんと地を蹴って右横へ飛ぶ。
そして自分の居た場所へ、及び自分の居た場所の真後ろに居る白野へと振り返った。
まんまと誘導に引っかかった、と男は嘲笑う。

今の彼は誰が如何見ても怒りに苛まれており、冷静な判断は無理なようだと男は直ぐに悟った。
何せ先程からサーヴァントであるのに、人間をまともに捕まえられない位の甘さだ。
それゆえに、周囲を気にせず唯一我武者羅に自分だけを見てくるに違いないと男は悟り、わざと距離を取って彼の視界から彼の主の姿を消した。

その先には彼の主の姿。
間違いなく槍は彼女に当たる。
視認する事はしなかったが、それはきっと確実だった。

ランサーが彼の読み通りに動く稚拙さを持っていたならば。

彼の放った槍は確かに男の憶測していた通りの場所に突き刺さった。
けれども、それは白野自身ではなく、彼女を捕えている忌々しい魔方陣。
地面に突き立った魔を消す赤い槍はその効力を忽ち失った。
すっと白野の身体は軽くなり、白野は肩の力を抜いてゆっくりと起き上がる。
その際に、外傷などが彼女の身体を苛めたが。

「…おいおい、反則過ぎだろ。」

振り返った男は呆然として、やや頬に汗を流すもののやはりにやついた笑みは顔から消えていなかった。
その次の瞬間、彼の背後に一陣の風が過ぎ去った。
はっとして振り返ればそこには、今まさに残った槍を彼に付き立てようとするランサーの姿。

「ぐッ、」

避けられないと悟った男は素早く短刀を取り出して、切っ先が脇腹に当たる寸前で刃先と刃先をぶつかり合わせて回避する。
そのまま力任せにランサーを押し退けられればよかったのだが、けれどもサーヴァントに生身の人間が勝てるような道理はなく、牽制空しく容易く後方へと吹っ飛ばされた。
程なくして地面に身体を衝突させた魔術師は小さく咽こみ、苦々しい顔をしてすぐさま上半身を起き上がらせる。

「名も知らぬ魔術師よ、因果応報と言う言葉を知って御出でか?
このような事を仕出かしたのだ、貴様とて覚悟はしてあるのだろう。
否、しておらずとも俺は貴様を許す気にはなれん。」

その声は確かに聞こえるのに、眼前にはその姿はなく、男は焦る。

「俺にとっての彼女は我が右腕を一本圧し折ってくれてやってもまだ足りぬくらい重く必要なものでな。
そんな我が身体に…否、何者にも変えがたい我が主を、よくも卑劣な手を使い散々甚振りつくし、挙句はあのような痛ましい姿にさせてくれたな。」

地面の底から響くような、そんな低い声音に男は情けなくも腰が引けた。

「痛み分けに終わらしてくんないかね?」

冗談交じりにそう彼が告げる声は若干かすれている。

「安心しろ、主の目線がある前では貴様に手は下さんと俺は決めている。
…彼女に悲惨な世界を一塊も見せたくはないのでな。」

そこで漸く男は、彼が怒りに任せて我を忘れていたのではなく、単純に彼女に無残な姿を見せたくない為に自分を泳がせていたのだと気付く。
そうでなければ彼は容易く肉塊に変わっていた。

「貴様が令呪目当てに主の腕を先にとるような馬鹿ではなくて安心した。
そうであったらば、俺は我を忘れて貴様の四肢を彼女の目の前でも構わずに引き裂いていた事だろう。」

「…大層な顔してらっしゃるが、物騒な兄ちゃんだ。」

男はこれから怒る事を予測しつつ、真後ろに居るだろう黒い姿に恐怖した。

◆哀れな捕食者

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