□彼女の世界
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きっかけは街中で転んでいた少女を発見した事だった。

誰も手を差し伸べようとはしない。
遠巻きに彼女を見ては哀れむような視線を向けて去っていくだけ。
あまりにも薄情な人の群れに嫌気が差して、自身が居た場所からわざと音を大きく立てて彼女へと駆け寄った。

大丈夫か、と此方が声をかけた途端、起き上がりかけた少女が上を向いて徐に此方の顔を確かめようとしていた。
その顔を覗いた瞬間、愕然として言葉を失う。
濁った灰色の瞳。焦点の合わぬ目線。
一瞬で、彼女は世界が見えないのだと気付いてしまった。

「ありがとう。平気です。」

少女は自分の手を借りながらも、ゆっくりと立ち上がるとぱっぱと手馴れた様子で自らの膝を軽く叩く。
そして緩やかに頭を交互に振って見えない辺りを見渡すと、此方に申し訳なさそうに問い掛けてくる。

「…あの、悪いのですけど……近くに、杖、とか…ないかしら?」

若干違う場所を向いて語りかける少女を見つつ、自分は彼女の転んだ場所を目で探した。
それらしき杖は直ぐに見つかり、自分は手を伸ばす。

だが、自分達の前をなにやら大急ぎで駆け抜けていった人物が杖を蹴っ飛ばして、何処へと連れて行ってしまう。
伸ばしかけた手をぴたっと固まらせ、自分は呆気に取られた後に、その人物に目を向けた。
声を出してがなり掛けるも、けれども既に杖を蹴っ飛ばした張本人は此方から背を向けていて、とてもじゃないが叫んでも届く距離ではない場所へと消え去っていた。

ふっと胸の中に苛立ちが湧くものの、それに感けている暇はなく、取るものも取り合えず改めて杖を捜そうとする。
だが、そうする前に彼女が自分の手をきゅっと握って引っ張ってきて、探索を阻んだ。

「いいわ。」

え、と振り返って彼女にきょとんとすれば、再度少女ははっきりと告げる。

「杖、ないんでしょう。…もういいわ。気にしないで。」

まるで先程の景色が見えていたかのように、あっさりとした諦めの速さに驚く。
彼女は子供のように泣き叫ぶわけでも、しゅんとするわけでもなく冷淡に、少しも名残惜しくない口振りだった。
いや、でも。と、寧ろ自分こそが渋って彼女にしつこく問いかけようとすると、彼女は大きくかぶりを振った。

「いいから。無駄な時間を浪費させてあなたに迷惑をかけたくはないの。
平気よ、この辺りの街並みだったら杖がなくたって足が覚えているから家まで帰れるわ。
どうもありがとう。」

子供らしくない難しい言葉をさらっと吐いた眼の前の少女に、つい自分は言葉を失ってしまう。
きょうびの子供と言うのはこんなに賢いものなのだろうかと、最近の成長率を疑った。
そんな風に彼女に感服していれば、不自然に開いた間に彼女が不思議そうに首を傾げる。

「どうしたの?早く離して。」

気付けば彼女の手を確りと握ってしまっていたらしく、嫌そうにぶんぶんと手を払う素振りをされて、やっとはっとした。
しかし促されても自分はその手を離す事が出来なかった。

折角だから、自分を杖代わりにすれば良い。と、此方から申し出る。
このまま彼女を捨て置くのは如何しても納得がいかないし、落ち着かない。
一度彼女を救ったのならば最後までお節介をかけさせてもらいたい。
そもそも、もっと早くに自分が杖に手を伸ばして居ればよかったものの、暢気に余裕を持っていたせいであのような事になってしまったのだと悔やむ部分もあった。

自分の申し出を聞いて、彼女は暫し驚いたように口をぽかんと開いていると、やがてゆっくりと唇を結んだ。

「別に…あなたにそこまでしてもらうことはないわ。
私は本当に大丈夫だから、責任を感じないで。」

けんもほろろに彼女はそう言うと、此方が手を離さないのに痺れを切らしたようにもう片方の手を使って自分の手を外そうとした。

「それに、私みたいな人間は人肌に慣れすぎると良くないの。
あなたにそんな事をしてもらわなくたって、私にはしてくれる人が居るから平気。」

そう言うと、少女は自分と離脱した手を自身の胸に当てて、一歩引いた。
一体それはどういう意味だ、と尋ねようとすれば彼女は冷ややかな笑みを浮かべてそれ以上は言うなと言いたげに無言を貫いた。
その表情があどけない少女のする一面とはとても思えずに、自分はごくりと唾を飲み込む。

そうして自分が黙り込んだのを確認すると、彼女は自分の僅か真横を過ぎ去って静かに、大人しく歩き出した。
一歩、一歩を確かめるように。

彼女の笑顔に呑まれていた自分は我に返ると慌てて彼女に振り返り、少女の腕を掴もうとする。
だが、少女は少しも目が見えないとは思えない軽やかな足取りで、すたすたと先を歩いていっていた。

その際に、何故か彼女の隣に誰かが居るような気配がして、真っ黒い靄が見えたような錯覚をする。
慌ててごしごしと自分の目を擦れば、次の瞬間には彼女の隣には何もなく、ただ、優雅に歩く少女の背中だけがくっきりと映っていた。

あれ、と此方が呟くと肩越しに彼女が此方を見る。
そしてゆったりと微笑んで人波の中へと消えていった。

自分は呆然としてそれを眺めていれば、背後の方で誰かがやや大きめな声で話してるのが聞こえて振り返る。

「何でこんな所に杖が…」
「誰のだよ、コレ。不法投棄?」

見ればそこには二人組の男が小さな杖を持ってそれについて議論をしているようだった。
見覚えのあるその杖に、あっと自分は声を上げて咄嗟に其方へと駆け出す。

すみません、と声をかけて彼らに自分のものだと嘘をついてそれを返却してもらった。
すぐさまその杖を持って今度は彼女が去った先へと地を蹴って足を踏み出した。
幾らあのように器用であってもやっぱり、これがないと大変だろう、と心配になる。
人混みの中を掻き分けて少女の姿を捜せば、彼女は間も無くして見つかった。

すたすたと、けれどもやはり歩幅は小さく歩きながら彼女は人混みから路地裏へとすっと消えた。
一瞬、何故路地裏にと思うけれども人混みの激しい場所よりも狭い場所の方が動きやすいのだろうかと思い直して、自分も素直に横道に逸れる。

恐らくはもう間も無く彼女に辿り着くだろう。
そう憶測を立てた次の瞬間。
自分は彼女にやっと出逢った。
彼女は確かにそこに居たけれど、一人ではなかった。

禍々しい甲冑を纏ったこの現実にはそぐわない違和感のある雰囲気の誰かと、手に手を取り合って幸せそうに笑っていた。
その光景は異色だったけれど、彼女の笑みはとても柔らかく美しかった。

◆まるで絵画を切り抜いたかのように

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