短編

□或る男の噺。
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嗚呼、嗚呼、何と云うことで在ろうか!
私はしてはならぬ恋をしてしまったのだ、あの人は私と同じ、男だというのに!






る男の噺。






 初めて逢ったのは木枯らしが吹き荒ぶ頃であった。私は古びた喫茶店で珈琲を飲みながら、何か新しい話の種はないだろうかと窓の向こうの鉛色をした空をぼうっと眺めていた。私は、しがない作家であった。
 残っていた珈琲をぐいと飲み干し、席を立つ。これからまた、話を書かなければならぬ、と思うと、足は鉄を着けたように重くなったのだった。此処の所何を書いてもあの若かりし頃の新鮮な感情は戻ってこず、私はだんだんと物書きの仕事に疲れを感じてきていた。

 そんな、時だったのだ。あのひとと出逢ったのは。

 喫茶店から外へ出ようと、カラコロと鈴を鳴らし扉を開けた時、私は何かとぶつかってしまった。その拍子に、私が手に持っていた原稿用紙と万年筆の入った図汰袋が転げ落ちてゆく。私が慌てて其れを掴もうと伸ばした手の首は、私より一回り大きな掌に掴まれた。

「僕が拾おう。」

 あのひとは、私の図汰袋を拾い上げ、私に手渡した。彼の、東洋人にはあまり見掛けない榛色の瞳が、私を捉える。

「すまなかった。」
「い、いや、大丈夫だよ。」
「お詫びとして、何か奢りたいのだけれど…いいだろうかな?」

 彼の唇が弓のようにしなって、美しい笑みを作った。思えば、私はあの時から彼に捕らわれていたのだ。
 ―――…あの、榛色の瞳に。


 それから、私と彼は幾度と無くあの喫茶店で逢った。彼の名前は、椎名圭一郎〈シイナケイイチロウ〉。私が彼について知っていることは此のひとつきりしか無かったが、其れで良かったのかもしれない。

「やあ、椎名。今日は何時になく機嫌が良さそうじゃあないか。どうか、したのかい?」
「本橋〈モトハシ〉、良く分かったね。実は今日…」

 彼は一杯の紅茶、私は一杯の珈琲。其れを二人飲み干すまでは、私と彼だけの時間であった。
 雪の深々と降る冬の日も、春の嵐が訪れた日も、桜の蕾がふっくらと太り始めた日も、風が薄桃色を散らし始めた日も、暖かな日差しが降る日も、雨の降る梅雨の日も、日が照りつける初夏の日も、蝉達が死にゆく晩夏の日も、涼しい風が吹き始めた日も、木々が葉を落とし、冬への準備をし始めた日も。すべてすべて、窓の向こうを二人並んで見続けていた。
 私は何時の間にか、彼と話す事に嬉しさ、楽しさを見出していた。彼と話すと、私の心は歓喜と心地良い陶酔感が渦を巻き、私のインスピレィションは研がれた刃の如く鋭さを増していった。
 幸せ、だった。そう、今となってはもう過去の事なのである。私はあの人に恋慕の情を抱いてしまったが為に、もう私から逢うことは出来ない。出来るわけが、ない。
 私は私の心を、思考の海の奥底へと投げ入れたのであった。



 それから、幾年も経ったであろうか。私は年老いた。妻をとったものの、早くに死なれたが、息子も孫も、皆元気に暮らす日々が続いている。だから私は、震える指を叱咤しつつこの噺を吐露した。
 椎名、君は私を笑うであろうか。こんな気持ちの悪い感情を腹に抱え生きてきた私を。もしくは、何時もの如く唇を弓のようにしならせ、朗らかに笑い飛ばすのだろうか。どっちにしろ今此処に君は居ないのだから、私は君への感情をこの紙面にぶつけたいと思う。

 きっと、どんなに美しい女を見たとしても、君以上に私の心を揺さぶる人間は居ないだろう。私にとって、ただ一人永遠に愛するのは、君だけなのだろう。椎名、愛し







 言葉は、其処で途切れていた。何故なら、此を書いた本人、本橋次朗〈モトハシジロウ〉は此の文を書いている途中で其の命を落としたからだ。

「…」

 本橋さん。貴方は、罪を犯した。何故、私の祖父に一度だけでも逢わなんだ。私の祖父も、貴方を、









愛していたよ。














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