LOST CANVASの章
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“ハク、見て下さい”
可憐な花、穏やかな春、包み込むそよ風、ささやかな日向
そう形容すべき姿にハクは言う
“嬉しい?”
“はい!とても嬉しいです”
“そっか。なら、良かった”
彼女の笑顔が辺りの空気を明るくし、水分が奪われ罅割れた大地に根付いた芽に光を与えているようだった
“ハクは、嬉しいですか?”
「…私も嬉しいよ。君が嬉しいなら」
手に取った花に向けて落とした言葉は、記憶の中の言葉だった
自身に向けた少女の笑顔は、太陽だとハクは思う
記憶の群れで色濃く残った少女の名をハクは探ろうとするが中々見当たらないことに心が痛む
大切な少女だった
ヒュプノスやタナトス、オネイロス…皆と同じように大切な人だった
「ハク?」
ハクの表情が優れない様子に声を懸けたのは、傍に仕えるオネイロスだった
ハクは城より離れた野原から立ち上がると、オネイロスへと寄り、彼の頭へと手を伸ばす
「結構似合うよ、オネイロス」
「お前は…」
人間の装いをしたオネイロスの銀を帯びた髪に野花を挿せば、呆れながらも小さく笑む表情へと変化する
ハクはその姿に目を細めながら、少しだけ空を見上げた
「…昔も、こんなことしてたよね」
遠い、昔
オネイロス達と共に、美しい園で戯れていた情景をハクは思い起こす
冥衣との出逢いを引き鉄に、断片的な記憶の欠片は一つの情報となり、ハクに忘れ去られた過去を少しずつだが想い出させ、確かにハクの心に影響を与えていた
「美しい世界…エリシオンで私は、皆と過ごしてた…でも、そのエリシオンで私は、知らない人と一緒に居るんだ。大切な人なのはわかるのに、名前を想い出せない…」
完全ではないとは言え、ハクが少しでも自身らと過ごしていた頃を想い出し、そして再会した頃よりも、遥かに親しみを持った―――そう、昔の頃と同様に接してくれるハクの姿をオネイロスは嬉しく思う
「それは…もしや、ハーデス様では」
冥界の王の名を聞かされた時、ハクは野花の草原に二つの影を見る
一つは、陽を浴びることを許さない白い肌に常夜の髪を持つ麗しい男
そしてもう一つは、あの愛らしい少女の姿
「ううん…違う。ハーデス様の傍に居る少女なんだ」
「少女…―――それは…っ」
ハクが口にする少女に心当たりがあるのか、オネイロスの声が微かに動揺の色を見せる
その声を受けながら、ただ一緒に入れるだけで幸福に満ちた二人からハクは視線を逸らさずにいた
「何だろう…?ハーデス様が彼女に向ける目…」
届くはずもないことなどわかっていても伸ばしてしまう指先
そして、掠る事もなく消える間際に見せられたハーデスと思わしき男の眼差しに、ヒュプノスを重ねる
「すごく、大切そう…」
愛しむ瞳は、地上が畏怖するべき存在とは思えないほどに穏やかだった
あの瞳、あの空気、あの仕草
それらは死後の世界での安息を感じさせるものだった
「ねぇ、オネイロス。彼女は誰?…私にとって、彼女は大切な人なんでしょ?」
切なげな表情がオネイロスに向けられる
その瞳が、ハクが少女のことを想い出すことを望んでいると言っていたが、オネイロスは少女の名を口にすることを躊躇する
「ハク…急いで想い出す必要などない」
「オネイロス…」
「今は、時期ではないのだ」
記憶の少女の手掛かりを持つオネイロスの顔を仰いでいたハクは、自身が記憶を取り戻すことを強制することは愚か、それを拒む様なオネイロスに少しの間を置いて、小さく笑みを作った
「―――いいんだよ、オネイロス」
ハクのその笑みに、微かに開いていた唇をオネイロスは固く結び、記憶を辿る
「…きっと辛い記憶、なんだよね。オネイロスがそういう風に拒むのは、そういうことでしょ?」
「……」
「でもね、私は平気だよ」
少女の名を思うと、過去に幾度も見た情景が脳裏を過る
それは、ハクがあの樹の元で、涙を流す姿だった
あの御方を想い出せば、お前はきっと涙を流すことだろう
「だから、教えて」
それでもお前は、あの御方を想い出したいのだろうな
一心に応えを求めてくるハクの視線を受けながら、オネイロスは一度瞼を閉じると意を決して開く
「…その御方は―――」
“私であればよかった。彼女が居れば、彼女さえ居れば…こんなことは”
全ての罪は自分だ、と懺悔する彼女が甦らないことを願いつつ
「――― ペルセポネ様…ハーデス様にとって最愛なる御方の名だ」
冥界で最も美しい名を、連ねた