創作世界未来

□さよならアリス
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ぎ、と微かに階段が音を立ててキッチンへと人が下りる。
その者はひたり、ひたりと裸足でフローリングを歩いた。

夏場だがフローリングは少々ひんやりとしており、
素足に冷たさに直に伝わった。

それはある種の『気付き』だった。

ニュースで警報を出すほどのとんでもない豪雨、
強い雨音と吹き荒ぶ風は多少の物音も掻き消す。

ゴロゴロと継続的に鳴り響く雷は時に鋭く、
雷が苦手な者であればパニックを起こしそうなほどけたたましく響く。

人気の無い空間で、カチャンと立てる音は妙に耳に付いた。







突然の豪雨にやられてすぐに帰宅できず立ち往生している。
せめて雷が落ち着けば濡れてでも帰るから、と旦那から連絡があった。

雨の街アーヴェル、雨はさして珍しくないが荒れ狂った天候は稀有だった。

雷鳴止まぬ街の一角、ある住宅で
その女性は鼻歌を歌いながら階段を下りてきた。

旦那の帰りがいつになるかは分からないが、
遅くなって帰ってきた時のためにもご飯は作っておいた方がいいだろう。

そう考えた妻の彼女はキッチンの前に立ち、
冷蔵庫から今晩の料理に使うだろう野菜や肉などを取り出し、
カウンターの上にそれらを並べた。

野菜を水で軽く洗った後、まな板を取り出して不意に女性は手を止める。


「あら?」


違和感を覚えたかのように一言そう零した女性は、
キッチン周りをがさごそと漁り出した。

まな板の上に放り出された野菜がそのままに。
家の外では雨音も雷鳴も絶えず響いている。


「ママ」


突如として背後から掛かった声に、女性はギクリと肩を揺らした。
振り返れば彼女の娘が不気味なほど静かに音もなく立っていた。

豪雨に紛れて気付かなかったのだろうか。
驚いた様子は見せたものの、女性はすぐに笑みを浮かべた。


「アリス、どうしたの? 雷怖いかな?」


アリスと呼ばれた少女とも呼べる娘は元気なさそうにこくんと小さく頷いた。

アリスは雷恐怖症だった。
止まない雷で怖くなって下りてきたのだろう。

そう考えた母親は近付く娘を抱きしめようと腕を開いた。
2つに括った腰まである長い紫色の髪を揺らし、彼女は裸足で床を蹴る。


背中に隠されたそれは部屋の灯りでギラリと鋭い銀色を光らせる。


母親が目を見開いたのも束の間、
包丁がめり込むように、女性の腹に深く突き刺さる。

じわりと滲み広がる赤黒いそれは傷口から無遠慮に垂れ流されていく。
器官を通ってこみ上げてきたものを吐き出せば、床に赤い液体が散った。

何が起きたのかも分からない女性はぐらりと身体が傾き膝を付く。

分かったのは、探していた包丁は娘のアリスが持っていて、
致命傷という程に深く、殺意を持って娘から刺されたということだった。

どうして?
貴女を愛していたのに。

理解できぬ表情で痛みに悶える母親の姿を、
アリスは表情をぴくりとも動かさずに虚ろな瞳で見つめていた。


「知らないくせに」


彼女は淡々と抑揚のない声でそう呟いた。


――それはある種の気付き、だった。

誰も、知らない。 誰も『私』を知らない。

アリスという人が存在するのを知っていれど、
アリスがどんな人であるかを知る者は誰も居ない。

誰も、誰もだ。

学校のクラスメイトも、先生も、親ですら、私を知らない。

知らない。
知らない。

なら分からない。


気付いたその時、私の中の何かがぷつん、と切れた。
ぐるぐると巡った思考が停止して、その場で棒立ちになる。

前までずっと怖かった雷さえ、どうでもよかった。
ふらふらと歩き出し、震える手で伸ばした包丁。

金属の物音すら掻き消されるほど強い豪雨の中。

彼女は心を決めた。







しばらくしてルテアートル家の玄関の鍵が開き、
雨に打たれずぶ濡れになった少々ふくよかな男が入ってきた。

玄関の扉が開いたことに気付いたらしいアリスが、
家の奥からぱたぱたと小走りで姿を見せる。


「おかえり、パパ」
「おー、アリスただいま。 いやー参った参った」


雷はある程度落ち着いてきたものの、まだ雨は強く降っている。
雨に打たれ無理矢理帰ってきたのが分かる男性は玄関で服を絞った。


「ママは?」
「キッチンに居るよ」
「そうかい。 ママー、風呂ー」


呼びかけても静かで返事のないキッチンにアリスの父は疑問符を浮かべる。

父親と同じようにキッチンに視線を向けた少女は、
返事のないキッチンから濡れた父親へと視線を戻した。


「風呂入っておいでよ。 廊下拭いておくから」
「おぉ、すまんな。 ありがとう」


玄関でびしょびしょになった靴を脱ぎ、
男性は「うひぃ」とぼやきながら家に立ち入った。

廊下を真っ直ぐ進み、家の奥にある風呂へと向かう。
その道中にキッチンもあるから居るらしい妻の様子も見れるだろう。

そして、彼は足を止めて、その顔が驚愕に染まった。

赤黒い液体に沈んだ妻の姿を見た。
状況理解できぬ一瞬、たたたっと廊下を走る音を耳が拾った。


「っぐぅ!!」


振り返る間もなく、男性は背中から刺された。
背骨を避けて腰にメリ、ゴリッと包丁がめり込み鈍い音が響く。

吹き出す血が頬に掛かっても、彼女はその手を止めなかった。


「あり、す・・・」


掠れきった声で娘の名を呼んだ。

完全に不意を突かれ急所を刺された彼に抵抗する力も残っていない。
男性が膝から崩れ落ちる瞬間、アリスは刺した包丁から手を離した。

ずだん、と体重相応に重く落ちた彼はまだ微かに息が残っている。

焦点が合わなくなっていくその瞳で、肩越しに背後の様子を見れば
その様子を短く息を吐き出して自身を見下ろすアリスの姿があった。

呼吸が浅くなっていく。 もうあたまもまわらない。
何かを言いかけただろう口は何も発せず、父親も息を引き取った。

命の灯火が消えた。 私が、消した。

その手で、その刃で。


「・・・あは、」


零すように渇いた笑いを見せたアリスは口角を上げた。
揺れた紫色の髪に、彼女は目を細める。

顔を上げた彼女は緊迫した表情を解いた。


「あっははははは!!!」


狂うほど高く笑った声は雨音に消されて家の内側だけに留まった。

嗚呼。 嗚呼、なんて。 なんて呆気ないの。

一回りも二回りも幼い子供に奪われる、なんて命というのは儚いのか。

愛していたはずの娘に殺されるなんて想像できなかったでしょう。
私も、あなた達を大好きな娘を演じるのは楽じゃなかった。

大嫌いだった。 母親の甘い声も、父親の細めた瞳も。

これが君の幸せだと押し付けられる進路も、
これが君の幸せだと押し付けられる趣味も。

全部、何もかも大嫌いだった。 もう沢山だった。

雷が怖かったのは本当のはずだけど、それも嘘だったような気さえした。

両親、同じ刃で死ねたなら本望だろう。


高らかな笑い声はずっと続き、
一頻り笑いに狂った彼女は「はは、」と徐々に声量を落とした。

静寂に纏われ彼女の笑いが落ち着いた頃、
アリスの頬につー・・と伝った涙は一滴では留まらなかった。

結局ママとパパの求めた『良い娘』にはなれなかった。
ピリオドを打ったのは、紛れもない自分だった。

一切の後悔がないかと問われたら、そうでもなかった。

大嫌いだった人。 大好きだった人。
どうせによ自分を産み育てた者をその手で殺したのだから。

人の中身を構築していた肉は思ったよりも重たかった。
母親から包丁を引き抜く時、想像よりも抜けなくて少し慌てた。

私は、自らの手で人の命を奪った。
それも血の繋がった両親を。

その事実は想像より遥かに重く伸し掛かった。

それでも、殺してよかったと思えたのだ。

震えるほどの歓喜、込み上げるほどの悲壮。
狂ったような高笑いも、静かに頬を伝った涙も本心だ。

悲しい、温い、嬉しい、煩い、苦しい。
安堵、焦燥、放心、興奮、恐怖、苦悩、優越。

ごちゃ混ぜになった感情は自分1人では収拾が付かなくなっていた。



アリス・ルテアートルは死んでいた。
命こそあれど、心はとっくの昔に限界を迎えていた。

私を殺した環境なんて、殺したらいいんだ。 なんて。

突発的でありながら単純にも程がある思考、
一般論からは並外れた結論にも関わらず歯止めなんて掛けさせなかった。

止める者は居なかった。

彼女は死んでいたのだから。


世界が、終わる。





さよならアリス



(そして彼女は家を飛び出した)

(豪雨の中、駆ける少女に誰も気付かない)

(全てが本心で全てが嘘だった)

(君は逃げるけど、今日追う者は居ないよ)






執筆中、混乱のあまり何度も「どうして」と呟いた作品。


アリス・ルテアートル
  両親を刺し殺しホラーサイコみを見せた少女。 どうして?
  母親殺した後にシャワー浴びせるかとも迷ったけど、
  考えているうちに作品が完成してしまった。 返り血の浴び方次第。
  精神も人格も大変不安定で全部嘘で全部本当。 本来は雷恐怖症。





 

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