夢現そして無限たる夢幻(シリアス)

□Die Schale der Vergessenheit  〜“番犬(ツベルクスピッツ)”と忘却の果てに惑う“忠犬(シェーファーフント)”〜
2ページ/33ページ











「―――ああ、そうか。 これは夢だ」






















……14時20分、定刻きっかりに門を潜った
【青年】の眉が訝しげに顰められた。





気がつけば。 すっかり身支度を整え
小脇にファイル分けされた書類を抱えて、
【彼】はその見慣れた戸口に立っていた。

瞬きのため定期的に遮断される視界には、
花が溢れんばかりに咲き乱れた花壇に
囲まれた両開きの扉。 懐かしくもない。



日常的に足を運んでいる場所ゆえに、
今日も自分の意思でここへ来たのだと
言い聞かせれば容易い話であった。

しかし、【彼】はその風景に見覚えがない。
自分がここに立っている、立つに至るまでの
決意に基づいた過程の記憶がない。























「……やはり夢、なのか。

夢の中でも業務に追われるなど、
我ながら何とも情けないものだが」























そう呟いたようだったが、記憶にない。

小さく息を吐いて、戸口まで続いている
煉瓦造りの階段を登っていく。



それも目に見える景色だけの展開だ。
石段を踏む感覚も、頬を撫で上げる風も
匂いたつ花の香りも感じない。

やはり夢。 今までただの一度たりとも、
これほどまでに『自分は夢を見ている』と
自覚し、認識したことは無かった。























+++























「……奇妙なものだな、夢というのは」























そう唸ったようだったが、記憶にない。

ふっと遠退いた意識が続きの情景を忘れ、
再び我に帰った矢先に目に飛び込んだのは
延々と伸びた長い廊下と立ち並ぶ扉だった。



……やはり紅蓮のカーペットを踏む
大幅な足取りの感覚も覚えなければ、
腕に抱えた書類の不確かな重さも
うやむやに白んで排除されている。

ざふ、ざふ、と深く堅い繊維を踏みしめる
ゆったりした自分のものであるらしい足音、
薄暗い縦長の空間をぽつぽつと照らす
曇った電球の放つ鈍い光だけが、
【彼】がその景色から得られる情報だった。























「――――――………………。」























……ひとつめの扉を、過ぎる。





中で子供が泣き叫ぶような金切り声と
雷鳴のごとき轟音が響き渡っていた。

廊下に面して備え付けられた内窓の
煤けて曇ったガラスを横切る瞬間、
その向こう側から叩きつけるような絶叫が
息も絶え絶えに漏れだすのが聞こえる。























―――「強くなければ、見出されない。



    誰より強く、確かな存在へ」























……ふたつめの扉を、過ぎる。



中からは吹きすさぶ吹雪のような風の音と
骨の髄まで凍てついたような無機質な声。























―――「強くなければ、抜け出せない。



    そこは…… “寒くない”?」























……みっつめの扉を、過ぎる。



中からは、束の間の楽園を嘆く鳥の歌と
悔しさに啜り泣くような少女の声。























―――「強くなければ、取り戻せない。



    ただ他ならぬ貴方のために」























……よっつめの、扉を。























―――「強くあるために、信じたい。



    お前は、俺の太陽なんだ」























……聞き覚えのあるような、
もしくは全く知らなかったような。



鼓動は僅かに加速した気配があるのに、
歩幅も、見える景色の流れる早さも
まったく変わることなく歩き続ける。

自動で動く乗り物に乗っているかのような
強制された夢路を進んでいく。

試しに扉の近くへ着いたのを見計らって
ドアノブを掴んでみようとしたのだが、
指先はそちらへ動くどころか一寸たりとも
自分の望んだ通りに動きはしなかった。























……むっつめの、扉を。























―――「何がいけなかったんだろうな。
    最初から解りきってたはずなのに。



    ……何もかも俺のせいだった。

    ごめんな、○○○。 ごめんな」























――――――じゃごんッ!!!!



突如、窓枠の外から鳴り渡った
重い鎖が軋む寒気がするような音にすら、
【彼】は肩ひとつ竦ませることなく
我関せずと行軍を続けていく。























―――「何が悪かったって言うんだろうね。
    答えならとっくに解っていたのに。



    何もかも俺の我儘だったんだ。

    ごめんな、○○○。 ごめんな」























――――――ずだん!!!!



突如、窓枠の彼方から鳴り渡った
耳を覆いたくなるような錆びた銃声にも、
【彼】は呼吸ひとつ乱すことなく
強いられた行軍を続けていく。























「(…………もう、止めてくれ)」























そう祈ったようだったが、記憶にない。



突き付けられた現状を鵜呑みにして
諾諾と付き添っていく色褪せた空気に、
須臾(しゅゆ)の後にむっとするような
粘ついた紅色が滲み始めていた。

呼吸のため定期的に送り込まれる
一定量の酸素の味が、しだいに赤茶けた
喉に絡む刺々しさを伴っていった。























「(…………夢ならば、醒めてくれ)」























そう縋ったようだったが、記憶にない。



ひとつ、またひとつと扉を通り過ぎるたび、
どこかで聞いたような誰かの慟哭と
ぬかるんだ驟雨(しゅうう)が脳を焼いた。






耳を覆いたくても、瞼を降ろしたくても
体はやはり彼の意思の一切を拒んだまま
暢気に瞬きを繰り返し、歩調を変える事なく
黙々と廊下の突き当たりを目指していく。
























「(―――誰、だろうか。 あれは)」
























……そう訝しんだことだけは、覚えている。



ますます暗さを増していく廊下の最端に、
古めかしい装飾の彫られた木製の扉。

その手前、今にもドアノブに手が届く距離に
連れ立って歩いている二人の人影があった。





時おり言葉を交わしながら、いや、
話しているのは前を歩く小柄な少年だけだ。
こみ上げる嬉しさを抑えきれない様子で
ぐいぐいと後ろの青年の手を引いていく。

その青年の後ろ姿には見覚えがあった。
あるはずだった。あるに違いないのだ。
だが、どれだけ目を凝らしたところで
乏しい光源が散るだけの視界では
その鮮明な姿を捉えることは叶わなかった。

走り寄って声をかける事ができたら
どんなにいいだろう、と悔やむうちに
その二人は独りでに開いた扉の向こうへ
音もなく滑り込んでいってしまう。
























「(……――――――、)」
























確かめなければ。
無意識のうちに、そんな使命感を根に育った
好奇心のようなものが蒙昧な意思を満たす。

それと同時に景色の流れる速さが変わった。
彼の意欲に沿うかのように早足で、
機械のごとく単調に足を進める。



あと数歩進めば取っ手に指が届く。
長年の経験から確立された距離感で
予想通りに右手が前へ突き出される。

臆する気持ちがない訳ではなかった。
しかし彼の逡巡など歯牙にもかけず、
揺るぎない足並みはやはり淡々と続いて
ついに氷のように冷たい真鍮の金具に
伸ばされた五本の指がかかっていた。



どくり、と一度だけひどく高鳴った心音が
狭まった朦朧たる世界の中で響いた。

それでも腕は止まらず、端から見れば
なんの躊躇も持たぬ勇士然としていながら、
心の内では耐えがたいほどの緊張に
目眩すら催し、声なく悲鳴を上げて―――。
























   「―――“ヴェスト”」
























無造作に手首が捻られようとした瞬間、
背後から差し伸べられた手が肩を掴んだ。

限界まで張り詰めた意識の糸を
あらぬ方向から弾かれ、青年は柄にもなく
叫び声すら上げそうになる程の驚愕で
前に出した腕を体ごと硬直させた。



彼を抑止したのは聞き慣れた力強い声。
制止したのは分厚く温かい、懐かしい掌。

驚き戸惑い、視線はあちこちへと泳ぐのに
振り返ることだけは石像のように固まった
自分のものには思えない体が許さない。
























「―――お前は、そこを開けるな。



“扉”には相応に招かれる者がいる。

規範に沿わずして開こうとする者は
何人たりとも許されない。許さない。



お前はその“扉”には招かれてねぇ。
幸いにも、まだ……今のところは」
























そう掠れた声が呟いたと同時に
手をかけた肩をぐいと引き寄せられる。

がたん、と指を引き剥がされたノブが
惜しむように軋んだ音を立てた。



転ぶように後ずさった彼の横を
するりと入れ違う、見知った『青年』。

その横目にこちらの表情を鑑みる
赤紫に輝いた瞳と目が合った瞬間、
























「―――…………ッ!!」
























……5時45分、呆れるほど正確に
鳴り響くアラーム音で目を醒ました。
























+++
次へ
前へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ