『ヘタレにっき。』

□ぜろ。
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 「由愛、帰るよ」
 いつもお世話様です、と、お兄ちゃんは学童の先生に頭を下げた。よく、外見に不釣り合いなほどしっかりしたお兄さんだ、というようなことを言われる。それはそうかもしれない。金髪に大きなピアスをして、サングラスして、ロッカーのような格好をして出歩いていれば、まず年配の人はいい印象を持たない。
 「今日は何をしてたのかな?」
 「宿題」
 「そうか。俺も見習わないとな」
 俺も明後日レポート提出日なのに、結論が出せなくてさ。
 セーラー服のちびと、ビジュアル系の長身が並ぶ絵って、なんか不思議。
 でも、これがお兄ちゃん。
 正確には本当の「お兄ちゃん」じゃない。血縁を正しく言えば従兄にあたる。でも、私の両親が離婚して、親権を持っていたはずの母親が預金通帳を置いていなくなってしまったときから、私はお兄ちゃんの妹になった。けどお兄ちゃんのお父さんお母さん、つまり伯父さん伯母さん夫婦の養子にはなっていない。私を置き去りにした母親を許せるはずもないのに、置き手紙のわざとらしい「ごめんね」が気になって、籍が抜けない。そんなものを歯止めにしちゃうなんて、考えてみればそんなのもみじめだ。
 お兄ちゃんの名前は蔵野律だから、私が伯父さん伯母さんの養子になったら、朝比奈由愛から蔵野由愛になるのか。
 全国の蔵野さんには申し訳ないけど、なんかすごく、普通。
 逆にそれも似合うのかな。朝比奈、なんて明るそうな名字、付けられたって。
 「今日のご飯は何がいい?」
 「何でもいい」
 「そんならカレーだな」
 「昨日もカレーじゃん」
 「何でもいいって言うとそうなるぞ」
 「分かった、パスタでいい」
 「え、俺ミートソースしか作れないけど」
 「それでいい」
 「じゃあ買い物付き合え、な」
 口がにっと三日月を描いたから、サングラスの向こうの目が笑っているのを感じた。それを見ると私は、なんともいえない気持ちになる。緊張した時に似ているのに、動悸もめまいも汗も同じなのに、それとは違って嬉しいんだ。怖いのは一緒だけど。
 そう。私はお兄ちゃんが、律くんが好きだ。
 だってお兄ちゃんだけだから。私のみじめさを理解してくれるのは。
 お兄ちゃんは私に、どうしていつも宿題をするのかって聞かない。学童の先生は分からないからずけずけ言ってくる。どうして由愛ちゃんはいつも宿題ばかりなのかな?お友達ともっと遊べばいいのに、なんてさ。デリカシーないよね。友達がいないことくらい、見てたら分かるのに。混ぜて、なんて言って遊べる性格じゃないことくらい、気づくだろうに。お兄ちゃんは分かってくれているから、今日もそうだったか、って思うだけで、聞かないでいてくれるんだ。それが少し私のみじめさを和らげてくれる。
 それに同年代の男子たちは、どことなく汚いの。にじみ出る空気が、ガキっぽくて、うざったくてたまらない。話しかけられるのも、視界に入れるのも嫌。人を思いやることを知らなくて、ただいたずらに自分の欲望のためだけに生きてる、最も動物に近いやつが、男子という生き物だと思う。お兄ちゃんはそこに一線を画しているんだ。お兄ちゃんはストイックだし、誰にでも気を遣って優しく振舞うことが出来る。それでいてブレない自分らしさを持っている。
 私は、だから、お兄ちゃんが好き。
 ふと思いなおすと、それで養子にならないっていうのもあるかもしれない。従兄妹までなら、好きになっても大丈夫なんだって、テレビで前やってたから。
 そんなわけで、邪魔なのは隣人だ。

 私たちは賃貸マンションの三階に住んでいる。大学生で2LDKの部屋を借りて住むなんて、蔵野家はリッチだなあとつくづく思う。事実、伯父さんがそのマンションの経営者なのだから、リッチなのだ。
 で、隣の部屋にはひとり、お兄ちゃんと同じ大学で同じ学科の女友達がいる。
 その女友達が、邪魔。
 エレベーターで三階までついたとき、私は頭を抱えた。早速その隣人が私とお兄ちゃんの部屋をピンポンピンポンしている。
 「何やってんの、鈴」
 「お、りっちゃんやっぱり留守だったんだ。おかえり」
 そう言って板尾鈴子さんは私たちの方に体を向けてにっこり笑った。その両手にはタッパーが三段積まれていた。
 「由愛ちゃんもおかえり。学校アンド学童お疲れさん」
 「今日は何くれんの?」
 無言の私を尻目に、お兄ちゃんは鈴子さんに近付いてタッパーを指さした。
 「肉じゃがと出汁巻き卵とトマトジュレだよ」
 特にこのトマトジュレはねえ、見よう見まねで作ったんだけど、おいしく出来たものだから、つい分けたくなっちゃってねえ。
 「でも「何くれんの?」って、りっちゃん、モノをもらう態度じゃないよ」
 「気のせいだって」
 「どこがだね、全くもう」
 鈴子さんは美人だ。日本人形みたいな黒い髪をポニーテールにして、大きな目、長い睫毛、すっとした鼻筋、ぷるんとした口元、健康的に見える程度の白い肌。顔や肌だけだってそれだけいいのに、スタイルはモデルさん並みで、実際大学のミスコンで去年は準優勝した。で、手先が器用で料理が上手。大学の劇団に入っているから、ミュージカルなんかに出ると歌もうまい。思い当たる欠点はひとつしかない。極度の人見知り、っていう、それだけ。たったそれだけで、お兄ちゃんしかお友達がいないらしい。
 こうして夕食なりデザートなりを頻繁に作って持ってくるのは、鈴子さんなりのお礼の仕方らしい。お兄ちゃんも何のためらいもなくもらう。
 でも、その話もどうかなって思う。鈴子さんを見ている限り怪しいものだ。私みたいに地味で陰気で華がない人間ならまだしも、こんなきれいで朗らかで華やかな人が人見知りだなんて考えられないもの。人見知りなんじゃなくて、本当は誰とでも仲良く出来るけど、あえてお兄ちゃんを、って思ってるんじゃないかって、考えてしまう。
 お兄ちゃん曰く、「鈴には「嫁」がいるから、俺は対象外だよ」らしいけど。
 ちなみにその鈴子さんの「嫁」というのは、同居している柴犬のちまりちゃんである。ますます信用ならない。
 「まああがりなよ」
 「おじゃまします」
 「持つよ」
 お兄ちゃんが持とうとしたタッパーを、私は引っ手繰った。
 「私が持つ」
 「お、そう?ありがとう」
 お兄ちゃんは笑って私にタッパーを預けてくれた。少しその笑顔に罪悪感を覚える。
 こういう人間だから、いつまでもみじめなんだなあって思いながら。
 結局今日も本来の夕食であるスパゲティミートソースを主食に、肉じゃがと出汁巻き卵をおかずに、トマトジュレをデザートに食べた。お腹は膨れたけど、面白くない。
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