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□Once Upon A Dream
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こんな夢を夜毎に見るのは、彼女の歌のせいだと思う。

ある日、彼女が歌っていた歌に…触発されたに違いない。


それは夢の中の出来事。


ベッドの上で微睡みの一時、彼女が私の素顔に触れてくる。仮面を付けていない右側の頬に、悪戯な仕草で指先は私の頬を辿る。その指先を捕らえて、私はそっと甘噛みした。ぴくりと震える躯、細腰を抱き寄せようとして、逃げられた。

「レジーナ」

腕を伸ばして、もう一度。

でも捕まえられない。

クスクスと笑い声、彼女は起き上がって、私を見下ろしてきた。

「エリック」

甘く、優しい声が私を呼ぶ。
その声がとても好きだ…。

微笑んだ彼女の瞳が、私を見つめている。素顔の私を目にしても、怯えても、震えてもいない。

私は、もう一度彼女に触れたくて腕を伸ばし、彼女は私に何か囁く。



…いつも、そこで目覚める。



彼女の囁きが聞きたい。
彼女にもう一度触れたい。

偉大な建築家の私は、同時に腹話術師でもある。だから、彼女の囁きが言いたいことは、読唇術で分かってしまうのだ。


…愛してる。


口唇は、そう言っている。
夢の中でも構わないから、私は愛の言葉が欲しいと想ってしまう。目覚めて、酷く虚しくなることが分かっていながら。


…私は、彼女の愛が欲しい。


生まれてこの方、純粋な愛など受けたことのない私の傍にいてくれるのは彼女だけだ。真っ直ぐな瞳で見つめてくる、笑いかけてくる、触れてくる…。かつて、愛を見つけたのかと思った瞬間もあった。けれど、それは結局幻に過ぎず、時を経てまた私を苦しめる。しかし、彼女が傍に居たなら…私が見つけた、新しい愛だったなら。


お互いに、特別な想いを隠している。


あと一歩で…通じ合うかもしれないのに。


あと一歩進んだなら、幸福な時間を…あの夢を正夢に出来るかも知れないのに。


躊躇いがあるのは、彼女は結局異世界の住人で普通ではなく、私は別の愛を追いかけているからなのだろう。追いかけている愛は手に入るものなのか保証はなく、傍にある愛なら容易く手に入れられるのではないかと縋ってしまっているだけで、本当に彼女を想っているのか分からなくなっている部分もある。


マンハッタン・オペラハウスの初日が近付くにつれ、私はいよいよ落ち着かなく、眠れなくなっている。

クリスティーヌの歌が申し分ないだけでなく、息子のピエールまでもが良い歌を歌えた。だが、息子の歌は…素晴らしい響きがあるのだが、私やクリスティーヌと同じ様でいて、何か違う気もする。とても馴染みがある響きのはずなのだが、何故違うと思うのだろう。



落ち着かない自分に、安らぎが欲しかったなどとそんな気紛れな言葉が赦されるはずもない。




けれど…


真夜中、リビングの窓辺で。

いつかのように彼女が夜景を見下ろしながら、佇んでいた。

私の夢を誘発する…あの歌を口ずさみながら。




その甘美なフレーズに願わずにはいられない。私にとって、彼女がそうなのだと。

夢の様に、彼女は私を愛してくれると。

夢の中で、私は彼女に口付け、深く抱き寄せる。肌を露わにしてゆくと同時、2人には言葉も必要なくなり、ただ互いの与える誘惑に墜ちるだけ。彼女は私を求めて、腕の中で震える。陶酔の極みで。

それはめくるめく幸福の時。






背中から抱き締めた私に、彼女は驚かなかった。
暗闇の中のガラスは、鏡の様に彼女の後ろに居た私を映し出していたのだから。

温かくて、柔らかい。
豊かな黒髪が背中を流れ、少しひんやりとしている。

「レジーナ、抱きたい…」

しゃがれた声で、私はそう零していた。
何故、唐突にそんな事を言ってしまったのかとすぐに後悔したが今更遅い。二人はどんな関係でもないのに…何を言っているのか。

言ってしまった言葉を戻すことなど出来ず、彼女の拒否の言葉を待つしかなかった。

彼女の手がそっと、私が回した腕に触れ、辿り、私の手をきゅっと握った。

「貴方の好きな様に…」

それは、拒絶では無かった。
もう一度確認したいが、聞き違いだったらと思うと…。
動かない私の腕の中で、彼女は振り返る。そっと華奢な指先が隠れていない頬に伸びてくる。優しい手が触れて、包む。

「不満な応えだったかしら」

その仕草は聞き間違いで無かった事の何よりの証明だ。喜びで胸が詰まりそうになりながら、彼女の躯を掻き抱いた。










私の寝室のクイーンサイズのベッドの上。
シルクの漆黒のシーツに縫い付ける躯、肌は同じ様に滑らかで、髪は同色で豊かに広がっていた。
ただただ信じられなくて、じっと見つめる。触れている手首は細く、折れそうだ。私の視線に晒されて、彼女は瞳を伏せ、顔を反らせた。それは拒絶ではなく、恥じらいの仕草…。


誰かを腕に抱く日が来るとは思わなかった。
クリスティーヌを抱いた日なら、今でも覚えている。
私のオペラ座の地下の住処で、震えながら、私の摩訶不思議な声音に惑わされ、躯を投げ出した一時を。只、夢中で彼女を抱いた。ずっと待ち望んだ瞬間、宝物を我がものに出来たと信じた。だが全てはまやかしに過ぎず、私の一方的な愛と、拒絶だけが待つ結末。


だが、今は違う。
この結末は違うと信じたい。

まだ、クリスティーヌを追いながら…そんなことを考えている。


レジーナの顎を捕らえて、顔をこちらに向けさせる。アメジストの瞳は、怯えても、震えてもない。離した手首を持ち上げて、彼女は私の仮面を剥いだ。それでも、恐怖はない。自ら、私の爛れた肌に触れてくる。

優しく、哀しい微笑み。

私は、口付けた。彼女はそれに応え、口内に誘う。何もかも、あの時とは…クリスティーヌとは違う。あの子は、私の素顔を受け入れてはくれなかった…私の愛も何もかも。

「エリック」

彼女の優しい手が、私の視界を塞いだ。その手が暗闇を作り出す。

「レジーナ?」

戸惑って、彼女を呼んだ。

「違うわ。貴方…今、誰を見てる?分かっているはずよ。」

その言葉に、私は息を呑んだ。
彼女は、気付いていたのだ。
なんて私は不躾で、愚かなのだろう。
彼女を抱きながら、別の人を見ているだなんて…。
気付くと視界が塞がれたまま、私はベッドに沈む感覚を覚えた。彼女の声が、上から聞こえる。

「今夜だけ、身代わりでも構わないわ。貴方が、満たされるなら…。」

耳元で吹き込まれた囁き、耳朶を甘く噛まれる。吐息がかかって、そこから官能が広がってゆく…。首筋に温かいものが押し当てられて、降りて。こんな愛され方を、私は知らない。手探りで、彼女を探す。髪に触れることが出来て、耳から、頬に。耳の後ろを掠めた時に、その躯は僅かに震えた。


もう、応えは明らかだった。
クリスティーヌの幻が見えたのはほんの一時。


レジーナを見たくて堪らない。
彼女に触れて、私で満たしたい。

身代わりではなく…彼女は私の新しい愛だ。


視界を遮る手を捕らえて、手のひらに口付けた。手首の内側に一つ、紅く痕を残す。片肘を立て躯を支えながら、口唇はそのまま華奢な腕を辿って上へ、彼女の目の前で捕らえた指先に口付けて見せた。頬に触れて、もう一度口唇を奪うと二人の躯を反転させる。彼女の指先が、私の髪に差し込まれ、愛撫する。額を合わせて至近距離で見つめると、開かれたアメジストの瞳に自分が映っていた。本当はずっと、こんな風に彼女を見つめたかった…。

彼女は微笑み、私を引き寄せる。自ら、私に愛する資格を与えてくれる。これ以上ない喜びが、胸にこみ上げるのを感じた。夢ではなく、現実に彼女を囲っているのだ。

首筋に触れた。ネグリジェを剥ぎながら、胸元へ。細身の躯はキツく抱き締めると壊してしまいそうだった。膨らみを手に包み込む。頂きに触れれば、押し殺した喘ぎが僅かに漏れた。

「レジーナ」

ぎゅっと瞳を閉じた彼女。
口元を手で覆っている。

いつも甘美な歌を聞かせる彼女の声。
今夜は、私に応えて欲しい。

声を奪う両手を捕らえて、頭の上で拘束した。

自由な片手で彼女を素肌だけにし、口唇は鎖骨を辿り、幾つか痕を付けた。露わな肌を見下ろす…肌は白く、私が付けた痕は紅い。この躯が今は私のものだ。

私が腕を捕らえているせいで、胸元を突き出すような格好になる彼女を、私は次第に大胆に愛撫した。

「ンっ、ぁ、アァ…」

抑えきれない喘ぎが洩れる。
爪先から、膝へと触れて割り開く。そこに躯を入れると、閉じることはできない。指先で奥に触れた。熱く、融け出そうとしている…そう、私を受け入れる為にだ。

「エリックっ」

涙目なのを見て、腕の拘束を解いた。
細い指が、私の肩に触れてくる。肩から髪に差し込まれた手。

身を屈めて、彼女の熱い潤いに口付けた。

「やァッ、あッ、ァァっ、」

細い腰が跳ねる。
それを封じて、最も敏感な部分を愛撫すると更に熱く潤ってゆく。舌で割り開き、高みへと誘う。彼女の様子を伺うと、うるんだ瞳で私を見つめてきた。

不意に、私に伸ばされてきた手を取った。
躯を起こすと、華奢な腕が首に回り、私を引き寄せ、抱き締める。

耳元で「エリック」と囁く声が、全てを物語っていた。

「レジーナ…」

名を呼ぶと、私は融けきった躯を抱き寄せ、一突きで分け入った。私を包み込み、締め付け、高みへと誘う甘美な彼女の躯。途切れ途切れに私の名をうわ言の様に呼び、細い腕が私を抱きしめるように、縋りつくように回される。疑う余地もなく、これこそが愛の成せる技だと信じたい。
思うままに彼女を揺さぶり、声を上げさせる。ぎゅっと締め付けてくるそこに、遂に私が耐えきれなくなった頃、彼女も幾度目かの解放に身を震わせた。




彼女を抱き締めながら、いつぶりか分からない位、穏やかで深い眠りが訪れた。



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