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□Start Of Something New
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そのカフェに立ち寄ったのは、ピエールが行きつけだと聞いたからだ。
息子のピエールは、私よりも先に母親についてこちらにやってきていて、すっかりこの街を気に入ったらしい。家庭教師は見知ったところなら大丈夫だろうと判断して、彼の好きにさせていた。息子のことは家庭教師に一任しているので、このカフェに出入りしていることも安全だという判断のもとなのだろう。
久しぶりに息子に会おうと立ち寄ったが、ピエールの姿は無かった。
「何になさいます?」
「カフェを。」
カウンターに座り、店の奥に視線をやったが、やはりピエールは居ない。
「待ち合わせですか?」
「いや、そうではないんです」
私の視線や様子から判断したらしいマスターがそう問いかけてきて、妙にそわそわとしていた自分が少しだけ恥ずかしくなった。
店の奥にはピアノが置かれていて、そこでは女性が鼻唄を歌っている。
歌。
歌を聴くために、こんな遠くまでやってきた。
結婚して以来、私は歌を聴くのを、そして歌を口ずさむことをやめてしまった。昔は歌が大好きだったし、妻とは歌で心通わせ合ったことだって覚えている。けれど、歌は同時に思い出したくない過去を持っているのだ。そのことを思い出すと、甘い思い出は過ぎ去り、辛さや痛みだけが心に残る。そうして、妻を疑ってしまうのだ。自分をどんな風に見ているのかって。
「いらっしゃい」
カラン、とドアが来客を告げると私の思考を引き戻してくれた。
「こんにちは、マスター。えっと、先にケルシーに付き合うから、ランチは後にするわね」
常連らしい彼女はマスターにそういうと、奥のピアノの傍に寄り添った。
なんとなく、手持無沙汰も手伝ってそちらに視線をやってしまう。
「ピアノを弾いてるのは、私の妹で大学で作曲を先行しているんです。今はデュエットに凝っていて。まぁ、ほんとは男女のデュエットなんですけどね」
軽快なピアノに、誰もがおしゃべりを辞めていった。マスターが、二人を眺めた私に説明をしてくれる。
ケルシーという名らしいピアニストが歌をのせる。それに続いて彼女が歌いだすと、その声には不思議と惹きつけられた。誰もが、うっとりと聞き入るのだ。
その心地よさに誘われるように、意思とは裏腹に足がピアノの方に向いていた。そのそばによると、知らずに自分の視線が譜面の上をなぞる。
何かを感じたらしいケルシーと目が合うと、中断された音楽がリピートしていた。
考えるより先に。
私が歌うのを、少し驚いた瞳で見ていた彼女が歌をのせて、二人の声が合わせると言いようの無い高揚感が身を包んだ。
始まりの予感。
歌がこんなに幸福な気持ちを連れてくるものだともう一度感じられるようになるなんて。
不意に、口ずさんでいたのはいつかのあの曲。
栄華を極めたオペラ座の屋上、銀世界の中で妻と心を交わしたあの曲だった。何故、その曲が浮かんだのかは分からない。けれど、今度は私が驚かされる方だった。
…彼女が、私に合わせてきたのだから。
この曲を知るのは、妻と私と…あと一人。
あぁ、でも、この曲、デュエットの心地よさ。
「歌が上手なのね。」
彼女はそう言った。
微笑んでいるのに、どこか哀しげな瞳は…私の歌のせいだったのかもしれない。ただ、二人のハーモニーは完璧に思えた。その完璧は、技術とかそういうものじゃなくて、心が震える、通い合うという意味でだ。
「良ければ、一緒に珈琲でも」
ケルシーが私達の間をすり抜けてマスターの横で珈琲を淹れ始め、私達はカウンターに腰を下ろした。
こんな出会いがあるなんて思っても無かった。
三人はとても親切で魅力的で、異国から来た私に昔からの常連のように接してくれたんだ。
そして、彼女…レジーナが歌を思い出させてくれた。歌がどれほど幸福で、心地良い気分にさせてくれるのかということを。
こんな遠くまで歌を聞きに来たことを後悔しかけていたはずなのに、今はもうそんなことはなくて。
ピエールが此処を気に入っている理由を実感しながら、心地良い談笑は続いたのだった。
頭の片隅に僅か。
「音楽の天使」の話がよぎった気がした。
***
ラウルと彼女の出逢い。
この二人は、マンハッタンネタでは同士だと思います