inside of a glass
□Klndike Highball
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目の前のグラスを見つめながら、物思いに耽っていた。
指定されたホテル。
そのホテルに併設されたバーカウンターで、わたしは独り連絡を待っている。
数メートル前のカーテンの向こう、ティーラウンジは夜のわりには賑やかで話し声がこちらまで聞こえるよう。でも、今のわたしはその賑やかさには似合わない気がして、この奥まってライトダウンした場所にいる。
「待ってるのは、ほんとは逢いたくない人なんですか?」
女性バーテンダーが、あんまりなわたしの表情を気にしてか話しかけてきてくれる。同性なら、このわたしの微妙な気持ちに共感してくれるだろうか。
バーテンダーの左手薬指に指輪が光っていた。
「逢いたい人なんだけど、逢い続けるか迷ってるんです」
「どうしてです?」
わたしは、ため息をついた。
「御結婚されてるんですよね?あなたの旦那さんって、何歳差ですか?」
「私ですか?うちは同級生なんです」
「いいですね、同級生…」
同級生といわれると、よく知る夫婦が浮かぶ。
「わたしの待っている人、結構年の差があって、8こ。しかも年下。今どき珍しいわけじゃないけれど、まさか自分がって…。」
アラサーからの年の差は厳しい。
周りからの視線や質問、自分の身体のこと、女はリミットがあるとよく言われるし、年々そういうことを気にしているような気がする。
信成にも「名前の旦那さんになるひとはどんな人やろなあ」と言われたことはある。
「女の歳上って悩ましいですよね。男の人はすごい年下相手だと誇らしげですけど、女の人が上だと気まずさがあるってゆうか…。結婚前は年下と付き合ったこともあるんですけど、気まずいなって。」
共感してくれる人がいることに少しだけ心が軽くなって、わたしは「ありがとう」と言った。
スマホが震えて、部屋番号だけが送られてくるのを確認して、バーテンダーにチェックをお願いした。
「迎えには来てくれないんですか?」
「いいの、そういう約束だから。ありがとう。」
最後まで気遣いに感謝しながら、わたしはバーを後にした。
エレベーターの中。
独りでまた物思いに耽る。
今ならまだ、心は引き返せる。
最後の一線を越えるまでは、友達の友達だった頃のふたりに戻ることができると思うから、引き返すならそれまでの間だ。
向こうがどういう気持ちで此処に呼び出しているのか読めないが、歳は離れていても付き合っている男と女。
そんなことを考えてるのはわたしだけかもしれないけれど、様々な状況を想定しておかないとと思いを巡らせた。
部屋の前でインターフォンを押す。
「名前さん、待たせてごめん」
開いたドアからは控えめに顔を出した結弦は、申し訳なさそうな顔で私を招き入れた。
呼び出しの連絡が来たのは昨日の夜だったし、今日は予想の時間より一時間ほど待った。ただ、忙しそうな人だとは思っているから、わたしにとっては想定内であるけれど、真面目なタイプなんだろう。
「大丈夫」
部屋の端に移動しながら、持っていたバックをソファに置いて、結弦と向き合った。
「紅茶、入れてもいい?」
備え付けのティーパックが見えて、お湯を沸かしながら、準備をする。何か気まずい空気で、言葉がうまく出てこない。
ホテルに呼ばれるのは初めてのことで、まだふたりの距離では逢いたかったと伝えるにも、抱き締めあって再会を喜ぶのも違う気がした。
お湯が沸くその数分が長い。
「名前さん…」
背を向けていたわたしを、結弦が後ろから抱き締めてくる。体を重ねた僅かな重みと、髪に感じる吐息や感触。肩を包む手がぎゅっと強く引き寄せて、わたしは囲われた。
「どうしたの?」
その体制のまま、ゆっくり紅茶にお湯を注いだ。茶葉が開く香りが、緊張したわたしの気持ちを少しもとにもどしてくれる。
「取材の人がさ、」
「うん」
「名前さんと、多分一緒の香水の人がいて、それで…」
そこまで珍しい香水ではないから、そういうこともあるだろう。
ただ、それは使っている側の認識だ。
「香りの記憶ってすごいよね…。一気に名前さんのこと、思い出しちゃって。それで、約束、してなかったのにごめん」
香りを知るほどに近づいたのはつい最近で、そんな繊細な事に気づいてくれていたことに驚きと共に嬉しさがあるのに自分でも驚く。言葉を深読みして、わたしの香りの記憶で逢いたくなったと、そう言ってくれているのだと思ってもいいのだろうか。でも、そんな深読みは危険だと警告している自分もいる。
恋愛ならいくつかはしてきたのに、初めての恋のように計算がきかない自分は、どうかしている。
「紅茶、冷めちゃうよ」
緩んだ腕に少し触れると、窓際のテーブルに移動して向き合う。
最近あったことを細々と結弦が話すのに相槌を打ちながら、紅茶を飲み進めた。
トロントでの練習のこと、さっきの取材のこと、次のシーズンのこと、本当にスケートが好きでスケート三昧で、そして忙しい人なんだなと話を聞くたびに、距離を感じるような気持ちにもなっていた。
どうして、そう思うのだろう。
信成はそんなことはなかった。
信成のことを恋愛対象と思ったことは無いが、スケーターで有名だってことは少しは知っていたし、大学時代は華々しい活躍だった。それでも、仲が良かった。今まで付き合っているくらい。
出会いのベースが違うから?
それとも、ふたりのキャラクターの差がそうさせるのだろうか。
カップが空になったわたしは、時計を確認した。
「もう、帰らないと」
カップを持ち上げて片付けようとしたわたしに、少し慌てたように「ぇっ、」という声が聞こえてくる。
「帰っちゃうの?明日、休みでしょ?」
その声を背に、カップを洗面台で軽くすすぐ。手のひらに感じる冷たさに、気をしっかり持たないと流されてしまいそうな気がした。
「疲れてるんだから、ちゃんと身体を休めないと」
こちらの決心が折れそうなくらい、捨てられた子犬のような瞳でこちらを見てくる。この瞳に流されて、一夜を共にしたらどんなことになるのか、多分知ったら最後、わたしはもう戻れない。結弦にとって面倒な女になる予感しかない。
「身体に気を付けて」
次に逢えるのはいつになるのか、わたしには読めない。
でも、そのくらいの距離感が今はいいのだと思う。わたしは、自分で思う以上に多分臆病だ。
最後に少しだけ、手を伸ばして頬に触れた。
「次はちゃんと、前もって連絡するから。」
「うん」
「だから、名前さんの家に泊まっていい?」
また、あの瞳で。
わたしは少し曖昧に、頷いた。
これは、一線を越える為の誘いなのだろうか。
また深読みしすぎそうになって、辞めた。
ドアノブが触れる数歩手前。
「名前、」
わたしを呼び捨てにしたその声に思わず振り返ると、二の腕に感じる僅かな痛みと共に視界が塞がれていた。
「ンッ」
濡れたキスの感触に思わず声を漏らすと、角度を変えてもう一度塞がれる。
「やっぱり帰したくないって言ったら…」
息が上がったその数センチ先で。
最後まで言わずに、「ごめん」と続けられて、わたしは首を振った。
ゆっくり、今度はちゃんとドアノブを回す。
「じゃあ」
小さく手を振って、歩き出す。
角を曲がったら、思わず早足になった。
エレベーターの中で、鏡に写るわたしは複雑な顔。
あの時、結弦がごめんと言わなければ、帰ることができなかったように思う。
このまま身を任せて、一夜を共にしたらと。むしろそうしたい気持ちが沸き上がってしまって、自分がもうどれくらい引き返せないところまで好きにさせられているかを知らされた。
「好きなんだ…」
ホテルから出たとたん、今日に限って少し冷たい夜風が、わたしの熱くなった身体と心に吹き込んで、冷静にその自分の感情を口にした。
end