inside of a glass
□Olympic
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のぶくんが久々に日本に帰ってきた僕に、食事の誘いをしてくれた。
メディアから遠ざかったのが長かった分と、金メダルをとった分とで帰国しても取材とかが多くて、全然時間がない。
そんななかではあったけれど、せっかくだからと少しだけ頼んで行けるようにした。
「結弦、こっち」
先に来ていたのぶくんは、暗い店内で上手く僕を個室に連れていってくれる。
「ゆづ」
「大ちゃん!」
個室には、もう一人、よく知ったスケーターがいてくれた。
のぶくんも大ちゃんも、五輪キャスターをしていて、試合を見てくれていた。だから、お疲れ様会という雰囲気になる。
「結弦が着いたで」
大ちゃんといくつか会話を交わす間に、のぶくんが後ろから来た誰かに声をかける。
まだ、誰か呼んでるんだと振り向いたその先には。
「羽生くん、今日大丈夫だった?」
そこにいたのは、名前さんだった。
「名前、こっち座ったら」
「うん」
大ちゃんが、自然な雰囲気で名前さんを呼び寄せて隣のイスを引く。
のぶくんが僕を隣に座るように促して、向かいには名前さんになる形で食事が始まった。
「大ちゃんと名前さんは知り合いなの?」
「俺ら、大学が一緒やし」
「わたしが、信成のスケートを見に行ってる間に大ちゃんとも話するようになったのよ」
「ゆづと名前こそ、知り合いなん?」
「前に、信成のアイスショーを見に行ったときにたまたま。わたしみたいなのは、羽生くんのなかで知り合いに入れてもらえるか分からないけど」
おどけた風に名前さんはそう言った。
それは、大ちゃんに対してのカムフラージュなんだろうけど、その言葉になんだろ面白くないなってちょっと思ってしまう。
「もともと今日は、俺と名前が約束してて、そんで、大ちゃんも呼ぶ?ってなって。そしたら、結弦も帰ってきたから声かけてん。会えてよかったわ」
のぶくんがそんな事を話ながら、飲み物メニューを僕に差し出す。お酒は頼まないけど、らしくなくノンアルコールを頼んでみたのは、どうしてだろう。
この歳上の3人に、近づきたかったからかもしれない。
目の前の名前さんは、僕のなのに。
本当は、帰国して一番最初に逢いたかったのが名前さんだった。
でも、多分気を使ってたからだろうけど、金メダルを取った後も名前さんはまともな連絡をくれなかったし、約束を取り付けようともしてくれなかった。それが優しさだろうとは思っていたし、僕も慌ただしくてそれどころじゃなかった。
こんな形で逢えるなんて思ってなくて。
逢えて嬉しいはずなんだけど、事情を知らない大ちゃんがいて、名前さんは僕との関係は薄っぺらなふりをしている。
『羽生結弦』がどんな存在か分かってる。
だから、人目を忍んで個室で会うとか、そういう関係に見られないようにするとか必要なのかもしれないけど。名前さんのことになると、そういう頭では分かってることも気持ちがついていかなくなる。
「ゆづ、金メダルおめでとう!」
一番歳上の大ちゃんが、乾杯の音頭を取ってカチンとグラスが鳴ると。
大ちゃんとのぶくんが色々と聞いてくれたりしているうちにスケートの話に夢中になっていた。
現役の選手の前では言えないこととか、ふたりならではの意見ももらって。話には加わるわけではなくても、目の前の名前さんが、穏やかに相槌を打ちながら聞いてくれてるのがわかって、時間があっという間だった。
「タクシー呼んであるから」
お開きになって、名前さんが僕にそっと言ってくれる。
「結弦は、タクシーでホテル帰りや。危ないからな」
「みんなは?」
「電車で帰るし」
「そっか。気を付けて」
「じゃあね、身体に気を付けて」
僕を見送ってくれた3人を、タクシーの後ろの窓から眺める。
「どこまで?」
僕は、運転手さん聞かれて咄嗟にある場所を告げていた。
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