Short

□A-4
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「あら、いらっしゃい。」

厨房の作業台で、せっせと夕食・・・もしくは夜食の仕込みをしている彼女。
この時間は他の料理人は皆休憩に入っているので、常に彼女だけの時間だ。

こんなまだ少し太陽の出ている時間に姿を現すなんて少し前まではとんでもないことだった。
しかし、彼女がこのオペラ座で職について、私と出逢い・・・そして、まさか、まさか。
こんな私と想いを交わしてくれるようになってから、すっかりと定着してしまった習慣。
そもそもオペラ座の地下に住んでいる私だが、厨房とか食堂には縁が薄かった。そこが私の求める芸術の場とは関係なく思っていたからだ。食事にこだわりがないわけではないが、それ以外のものほど強烈な執着は無かった。今となっては、すっかり変わってしまったと思う。食事を大切にしようとするのは彼女に見捨てられないためと、お互いが理解しあうためには欠かせないから。

「夜はオペラを見るの?」

彼女の作業を眺めていた私に、問いかけがあった。

「あぁ、そのつもりだよ。」

「今日はクリスティーヌが歌うものね。」

オペラ座に勤めてはいるものの、彼女はオペラに詳しいわけではないんだ。
でも、徐々に色々と知って行ってくれている。

「はい、これ」

微笑んだ彼女は、私の前にカップとプレートを置いた。

「これは・・・?」

「早いけど、夕食かしら?枝豆の冷製スープと、ローストビーフのサンドウィッチよ。大したものじゃなくて悪いけど。あなた・・・オペラを見に行ったら、何も食べずに寝てそうなんだもの」

仕込みの途中だというのに、どこからともなく出てきたそれらは完全に前もって準備されていたものなのだろう。おそらく、私が来て、今日はオペラを見ると応えると予想していたに違いない。こんな風に優しくされることに不慣れな私は気の利いた礼すら上手く言えないのだ。それを知っているかのように、呆然としている私に彼女はお見通しと言わんばかりの笑みで私を見た。

「珈琲と紅茶、どっちがいい?」

「・・・お前の好きな方に。」

「じゃあ、珈琲で」

珈琲や紅茶は私もこだわりがある方だが、彼女の淹れるお茶は好きだ。
ハンドドリップで珈琲を淹れてくれているのを眺めながら、サンドウィッチを頬張った。

昔から、夢見ていたことの一つに。
普通に結婚をして、妻を持ち・・・そう、とにかく私は「普通」に憧れ続けていた。

ふと思えば、今この自分の姿はとても「普通」だ。
陽のある中、厨房ではあるが想い人、妻ではないけれど恋人と二人で他愛ない話をしながら食事をしているなんて。目の前にコトリとマグカップが置かれる。淹れたての珈琲が香ばしい香りをさせていた。何も言わずとも私にはブラックで出され、砂糖とミルクを加えたものを彼女は一口含む。私が見つめたのに気づき、微笑んだ。

「明日は休演日だろう。」

「えぇ、そうよ」

休演日は、彼女も仕事が休みなんだ。
つまり、今日の夕食や夜食を宿舎の者たちに出して、片づけを終えたら彼女はフリー。もしかすると、このオペラ座で一番忙しいのは彼女なのでは?と思うくらい、せわしなく働いているから、こういうちょっとした時間はあっても、そう、つまり・・・「恋人」らしい時間が少ないんだ。だから。
中々誘いの一言を言い出せない私を、彼女の訳知り顔の瞳が見つめていた。やっとのことで、彼女の名前を呼んだ。でも、続かない。

傍に寄った彼女が、私の額に小さく口づける。

「・・・深夜になるわよ?」

「待ってる」

言い出せない私に、歩み寄ってくれる彼女の優しさに。
まだ甘えてしまうけれど、もう少し慣れてきたらちゃんと誘えるようにしないといけないとわかりつつ、夜になるのを心待ちにした。



***

料理人ヒロインとエリックその2。

個人的にはこういうネタも悪くないかな。




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