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□Part Of Your World
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手を引かれて踏み込んだ先で、私はエリックの広いベッドの上にいつの間にか押し倒されていた。

何故こんなことになってしまったのか、まるで分からない。

彼は、酷く緊張したような面持ちで、私を縫い止めた手は少しだけ震えていた。

何故、そんな顔をするの?
私は、貴方のそんな顔を見たいわけじゃない。

明日は、とても大切な日じゃない。
クリスティーヌへの想いを抱きながら眠って欲しいのに。

何か不安なことがあるの?
でもね、こんな不毛な事を繰り返せない。きっと私が耐えられなくなるから。ちゃんと言えたオペラハウスと貴方とクリスティーヌへのお祝いも、全て無駄になってしまうわ。

「エリック…辞めましょう?」

難しい顔に、そう。
仮面で半分しか見えない表情は、哀しげに歪んだ。









手を引いて連れてきた、私のベッドに彼女が横たわる。

折れそうな手首を拘束する手は自分でも分かるくらいに震えていた。

私は、どうしたいのだろう?
彼女を抱いて、…それから?

酷く戸惑った眼差しで彼女が私を見上げている。
違うのに、私が欲しいのはこんな瞳ではなくて…愛しい者を見つめる優しい瞳なんだ。

それを得ることが、私にはとても難しい事だとよく分かっている。

だが、彼女にこんなふうにしていなければ、まだ私に優しい瞳を向けてくれていたはずなんだ。どこで間違ってしまったのか、まだやりなおせるのか。もう分からない。

私が欲しいのは、躯じゃなく心。


「エリック…辞めましょう?」


彼女が、優しく、哀しい表情でそう呟いて。
私は不意に緊張の糸が解け、彼女の横に沈み込んだ。










「…すまない。」

私の横に沈み込んだエリックは、仮面で隠れていない肌を腕で隠した。表情はもちろん見えず、でも声は今にも泣いてしまうのではないかと思えるくらい頼りなかった。こんなエリックは知らない。

「かまわないわ」

エリックの葛藤が私には分からない。
逆に、私の葛藤もエリックには分からないだろう。

傍に居たい気持ちとこれ以上は共に居られない気持ちが混ざり合っていたけれど、私が選ぶべきはこれ以上此処に居ないという選択だ。だから、横たわっていた躯を無理に起こしてベッドから出なければと思った。

「……」

私の片足がフローリングについた時、手首を優しく締め付ける感触があった。




「…傍に居てくれないか」



手首にかかった手は触れる程度に緩められてはいたけれど、呼ぶ声は弱弱しく切実で。
その声に導かれるように、私は失敗をしてしまった。
つまり、彼の方を見てしまうという失敗を。

彼の瞳は、寂しそうな、切なそうな、そして縋るような…断ってしまったら、もっと傷ついてしまうのだろうかと考えずには居られない瞳。彼が傷つくのは見たくないと思わせる哀しい目をしていた。

「エリック」

名を呼んで。
私は手を伸ばして、ベッドに無造作に転がった時に僅かに乱れた彼の鬘を外した。そのまま髪をなでる。隠れていない頬に降りると、僅かに目を伏せて、彼はそのしぐさを受け止めていた。
手首に触れていた手に、少しだけ力が籠められる。

「貴方が眠るまで、傍にいるわ」

それが、私の出来る最大の譲歩。
彼にではなくて、私自身にだ。

「…何もしない。だから、朝まで傍に…」

その縋るような瞳に、頷きたくなる自分に必死に抵抗しなければならなかった。
だって、どんなに駄目と思っても心は…傍に居たいとどこかで望んでいるのだから。

「此処に居るわ」

安心させるようにそう微笑みかけると、エリックの瞼がゆっくりともう一度伏せられていった。彼の夢と現の狭間で私の名前を呼んだのを聞きながら、私は仮面をそっと取った。眠る時はそうしないと窮屈だと思うから。隠されていた肌を撫でている間に規則的な寝息が聞こえて…遂に眠ったのを確認すると手首にかかった手をそっと外して。

名残惜しくも、寝室を後にした。



貴方の歌姫の夢を見れると良いわね。













朝。

また朝日に気付いて目覚めると、そこに彼女はいなかった。

こんな切なさを抱えて目覚める二度目の朝。
温もりを捕まえて眠ったと思っても、それは所詮束の間の幻なのだ。

彼女を抱いた温もりも、私の肌を撫でた手の柔らかさも…あの優しい感触が嘘ではないと信じたいのに。私の仮面も、鬘も剥いで素顔になったこの顔を受け入れて、微笑んでくれる。「特別」なんて言葉じゃ足りない。本当に特異な存在なんだ。


歌が聞こえる。


もうすぐ、私がかつて愛した歌姫の幕が上がる。それを彼女は勘違いをしているんだ。そう、私がまだ彼女を愛していると。
だが、もうすでに私の心は変わっていて、傍にある愛に気付いている。クリスティーヌともう一度逢ってみて、再確認したんだ。確かに、今も大切に思っている。クリスティーヌが居たから、愛がどんなものか、どんなに苦しいか、狂おしいか…そう知りえなかった感情を沢山知ったのだ。


だが、今の愛には。

クリスティーヌの愛からは知りえなかったことを知りたい。

愛がどんなに温かいか、優しいか…幸福の味はどんなものか。

私の新しい歌姫。

マンションのベランダという舞台で、毎朝ささやかな甘美な歌を私にくれる彼女。
欲しいのは、彼女の傍で目覚める朝。




この夜が終わったらもう一度伝えよう。

私の世界で、お前がどう映っているかを。








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