大きな手が私を押し抱く。 優しくて、温かくて……だけど苦しい。 そう、私は苦しい。 それは圧迫されているから感じる苦しさではない。 私の感じる息苦しさは、この人と共に生きる苦しさ。この人に愛される苦しさ。 そう、私は生き苦しい……。 彼が抱くのは私ではない。 私であるが私ではない。 彼は私の向こうに見ている彼女を抱いているのだ。 「マリ、マリ」 彼が私の名を呼ぶ。 だけどこの名前は私の本当の名前ではない。 私の名前は別にある。 しかし彼は私の事を『マリ』と呼ぶ。 この家に来てからずっと。 だから私はマリである。 この家においてはマリなのだ。 彼の腕の中から棚に飾られた写真を盗み見る。 そこには今より若い彼に抱かれた笑顔の少女。 私は彼女の代わりなのだ。 今はもう居ない彼女の――。 「マリ」 私は私の名前に振り向く。 私ではない彼女の名前に振り向く。 彼は嬉しそうな顔で私の頭を優しく撫でる。 私は甘えるように彼に寄り添う。 彼はさらに嬉しそうに私の頭を撫でる。 苦しい……苦しい……。 彼が愛しているのは私では無い。 苦しい……苦しい……。 それでも私は彼を愛している。 苦しい……苦しい……。 彼はまだ貴女を思っているかも知れない。しかし、今彼の温もりを得ているのは私だ。 今愛されているのは貴女ではなく、私なのだ。 貴女はもう彼に触れる事すら叶わないのだから。 だから、私の勝ちだ。 そう思えたらどれだけ楽だろう。 そう信じ込めさえしたら……。 耐え切れなくなり私は彼の腕からするりと抜けた。 ちらりと振り向くと、彼は少し悲しそうに笑った。 心が……苦しい…………。 私はそのまま部屋を出た。 今は彼と一緒に居たくない。 どんどん醜くなっていきそうだから。 苦しさが、私を歪めてしまいそうだから。 部屋を出たって特に行く所は無い。 この家はとても広いけど、私には無意味な空間ばかりだ。 先ほど居たのが二番目のお気に入りの場所。 一番は……今は行けない。 仕方なく私の為に宛われた部屋へと向かう。 大きな窓があり、良く日の当たる部屋。 気に入ってはいる、だけど……。 ここは嫌いだ。 一人になるから。 自分は一人だと、自覚するから。 部屋に散らばる玩具。 全て彼が私に買い与えたものだ。 一人で居るときに寂しく無いようにと。 こんなもの……何の意味も成さない。 私は足元にあった縫いぐるみを蹴りつける。 寂しさはこんな物では紛れない。 寂しい時は寂しいのだ。 私はベッドに横になり、床に散らばる玩具を見つめる。 ここに来てから随分と経つと言うのに、彼は未だに私を子供の様に扱う。 そう、まるで少女をあやすかの様に。 私は……彼女には勝てないのか………。 何も見たくない。 私は目を瞑った。 人の気配に起きる。 暫くしてノックの音。 規則正しく三回鳴らされる。 彼だ。 彼が来てくれたのは嬉しかったが、私は何だかバツが悪くて、素直に駆け寄れなかった。 「マリ、ご飯だよ」 彼の呼ぶ声。 私は自分を騙し、『ご飯につられた』という事にして、彼の元へいった。 向かい合ってとる食事。 もう何年目だろうか。 彼も私も歳をとった。 特に私は……。 少女の頃と今、彼から見れば見た目はそれほど変わっていないだろう。 だから彼は今も私を少女の様に、あの笑顔の少女の代わりとして、愛せるのだろう。 変わったと解れば、彼は私を手放し、他の代わりを探すだろう。 それは……耐えられない。 彼女の代わりでも、彼の側に居られれば、それだけでも私は……。 「マリ、どうした?」 彼の不安そうな顔。 苦しい……苦しい……。 そんな顔させたいわけじゃ無い。 苦しい……苦しい……。 せっかくの料理も喉を通らない。 味は随分と前から感じなくなっていた。 苦しい……胸が……心が……肺が……生き苦しい……。 俯く私を優しい手が抱き上げる。 彼の手。 大きくて大好きな。 その手が私を一番好きな場所へと連れて行く。 彼の膝の上。 そこに抱き上げられるのが一番好き。 彼の心臓の音まで聞こえてくるから。 一緒に居ることを実感できるから。 でも、苦しさもいっそう増す。 この温もりは彼女のもの……。 「具合でも悪いのか?お前も随分歳をとったからな」 彼は私が歳を取った事を知っていたのか……。 ならば何故私を離さない。 私の代わりに新しい若い少女を連れてこない。 もう私は彼女の代わりには相応しくない。 どうして……何故……。 私は……私は……もう少し期待してもいいのだろうか?希望を持っていいのだろうか? 「私ももうこんな歳だ。先は長く無い。だからもう少し側に居ておくれ」 彼は私の名前を呼んで頭を撫でた。 シワが刻まれた顔。 脂の抜けた硬い掌。 白髪も随分と増えた。 でも優しい笑顔は変わらない。 彼は何も変わらない。 私は彼の胸に顔を埋めた。 大好きな匂い。彼の匂い。お日様の匂い。 彼の顔を上目使いで見上げる。 私はここに居ていいのですか? 私は私としてここに居ていいのですか? 彼女の代わりではなく、私として? 「そうだよ、マリ。私にはお前が必要なんだ。もう皆私より先に逝ってしまったからね」 彼は寂しそうな、泣き笑いの顔をした。 皆逝ってしまった……。 彼の愛した人たちは皆……。 「可愛い私のマリ、お前だけは私を置いていかないでくれ」 彼は私のことをぎゅっと抱きしめた。 いつもより強く。 ぎゅっと。 あぁ……泣かないでください。泣かないでください。 私はあなたを置いて逝くことなんてしません。 あなたを悲しませるようなことなんて決して。 腕を伸ばす。 私の小さな手が彼の頬に触れる。 その手の上に彼の手が重なる。 あぁ・・・…。 あなたにはきっと通じないけど。 そんな事はわかっているけど。 声に出さずにはいられない。 「ニャ〜ニャ〜ニャ〜」 愛しています。 愛しています。 形は違うけれど。 私の愛しいご主人様。 |