掌編小説

□マリ
1ページ/1ページ








大きな手が私を押し抱く。
優しくて、温かくて……だけど苦しい。
そう、私は苦しい。
それは圧迫されているから感じる苦しさではない。
私の感じる息苦しさは、この人と共に生きる苦しさ。この人に愛される苦しさ。
そう、私は生き苦しい……。
彼が抱くのは私ではない。
私であるが私ではない。
彼は私の向こうに見ている彼女を抱いているのだ。

「マリ、マリ」

彼が私の名を呼ぶ。
だけどこの名前は私の本当の名前ではない。
私の名前は別にある。
しかし彼は私の事を『マリ』と呼ぶ。
この家に来てからずっと。
だから私はマリである。
この家においてはマリなのだ。
彼の腕の中から棚に飾られた写真を盗み見る。
そこには今より若い彼に抱かれた笑顔の少女。
私は彼女の代わりなのだ。
今はもう居ない彼女の――。

「マリ」

私は私の名前に振り向く。
私ではない彼女の名前に振り向く。
彼は嬉しそうな顔で私の頭を優しく撫でる。
私は甘えるように彼に寄り添う。
彼はさらに嬉しそうに私の頭を撫でる。
苦しい……苦しい……。
彼が愛しているのは私では無い。
苦しい……苦しい……。
それでも私は彼を愛している。
苦しい……苦しい……。
彼はまだ貴女を思っているかも知れない。しかし、今彼の温もりを得ているのは私だ。
今愛されているのは貴女ではなく、私なのだ。
貴女はもう彼に触れる事すら叶わないのだから。
だから、私の勝ちだ。
そう思えたらどれだけ楽だろう。
そう信じ込めさえしたら……。
耐え切れなくなり私は彼の腕からするりと抜けた。
ちらりと振り向くと、彼は少し悲しそうに笑った。
心が……苦しい…………。
私はそのまま部屋を出た。
今は彼と一緒に居たくない。
どんどん醜くなっていきそうだから。
苦しさが、私を歪めてしまいそうだから。



部屋を出たって特に行く所は無い。
この家はとても広いけど、私には無意味な空間ばかりだ。
先ほど居たのが二番目のお気に入りの場所。
一番は……今は行けない。
仕方なく私の為に宛われた部屋へと向かう。
大きな窓があり、良く日の当たる部屋。
気に入ってはいる、だけど……。
ここは嫌いだ。
一人になるから。
自分は一人だと、自覚するから。
部屋に散らばる玩具。
全て彼が私に買い与えたものだ。
一人で居るときに寂しく無いようにと。
こんなもの……何の意味も成さない。
私は足元にあった縫いぐるみを蹴りつける。
寂しさはこんな物では紛れない。
寂しい時は寂しいのだ。
私はベッドに横になり、床に散らばる玩具を見つめる。
ここに来てから随分と経つと言うのに、彼は未だに私を子供の様に扱う。
そう、まるで少女をあやすかの様に。
私は……彼女には勝てないのか………。
何も見たくない。
私は目を瞑った。



人の気配に起きる。
暫くしてノックの音。
規則正しく三回鳴らされる。
彼だ。
彼が来てくれたのは嬉しかったが、私は何だかバツが悪くて、素直に駆け寄れなかった。

「マリ、ご飯だよ」

彼の呼ぶ声。
私は自分を騙し、『ご飯につられた』という事にして、彼の元へいった。



向かい合ってとる食事。
もう何年目だろうか。
彼も私も歳をとった。
特に私は……。
少女の頃と今、彼から見れば見た目はそれほど変わっていないだろう。
だから彼は今も私を少女の様に、あの笑顔の少女の代わりとして、愛せるのだろう。
変わったと解れば、彼は私を手放し、他の代わりを探すだろう。
それは……耐えられない。
彼女の代わりでも、彼の側に居られれば、それだけでも私は……。

「マリ、どうした?」

彼の不安そうな顔。
苦しい……苦しい……。
そんな顔させたいわけじゃ無い。
苦しい……苦しい……。
せっかくの料理も喉を通らない。
味は随分と前から感じなくなっていた。
苦しい……胸が……心が……肺が……生き苦しい……。
俯く私を優しい手が抱き上げる。
彼の手。
大きくて大好きな。
その手が私を一番好きな場所へと連れて行く。
彼の膝の上。
そこに抱き上げられるのが一番好き。
彼の心臓の音まで聞こえてくるから。
一緒に居ることを実感できるから。
でも、苦しさもいっそう増す。
この温もりは彼女のもの……。

「具合でも悪いのか?お前も随分歳をとったからな」

彼は私が歳を取った事を知っていたのか……。
ならば何故私を離さない。
私の代わりに新しい若い少女を連れてこない。
もう私は彼女の代わりには相応しくない。
どうして……何故……。
私は……私は……もう少し期待してもいいのだろうか?希望を持っていいのだろうか?

「私ももうこんな歳だ。先は長く無い。だからもう少し側に居ておくれ」

彼は私の名前を呼んで頭を撫でた。
シワが刻まれた顔。
脂の抜けた硬い掌。
白髪も随分と増えた。
でも優しい笑顔は変わらない。
彼は何も変わらない。
私は彼の胸に顔を埋めた。
大好きな匂い。彼の匂い。お日様の匂い。
彼の顔を上目使いで見上げる。

私はここに居ていいのですか?
私は私としてここに居ていいのですか?
彼女の代わりではなく、私として?

「そうだよ、マリ。私にはお前が必要なんだ。もう皆私より先に逝ってしまったからね」

彼は寂しそうな、泣き笑いの顔をした。
皆逝ってしまった……。
彼の愛した人たちは皆……。

「可愛い私のマリ、お前だけは私を置いていかないでくれ」

彼は私のことをぎゅっと抱きしめた。
いつもより強く。
ぎゅっと。

あぁ……泣かないでください。泣かないでください。
私はあなたを置いて逝くことなんてしません。
あなたを悲しませるようなことなんて決して。

腕を伸ばす。
私の小さな手が彼の頬に触れる。
その手の上に彼の手が重なる。

あぁ・・・…。

あなたにはきっと通じないけど。
そんな事はわかっているけど。
声に出さずにはいられない。

「ニャ〜ニャ〜ニャ〜」

愛しています。
愛しています。
形は違うけれど。

私の愛しいご主人様。







[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ