キリリク

□われならなくに
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 陸奥(みちのく)の しのぶもぢずり 誰ゆゑに 乱れむと思ふ 我ならなくに

 天ノ川学園高校への「潜入調査」という依頼を終えて数日。私達は連休を利用してここ、福島県に旅行へ来ていた。
 その旅行の最中、文知摺観音の敷地の中に鎮座している巨大な石を見て、先の歌を思い出した。
 百人一首では下の句が「乱れそめにし」と改められているけれど、私は古今に載っているこちらの方が好きだ。
 霧雨さんはただ「大きな岩」としか認識していないだろうし、弓さんも然程この岩には興味がないのだろう。柵に囲まれた岩を、ただぼんやりと眺めているだけのように見えた。
「わざわざ掘り起こしてまで、ありがたがるような岩か、これ?」
「信仰の対象というよりは、一種の文化財のような物ですから」
 呆れ混じりに呟かれた弓さんの言葉に返しつつ、私はもう一度その岩を見やる。
 彼の石は、かつてこの地域の特産でもあった「もぢずり」と呼ばれる摺り衣を染める際に使われた物だと言われている。あの石の上に布を置き、その上から草花をこすりつける事で乱れ模様が出来上がる、という岩の凹凸を利用した染め方だ。
 当然、二度と同じ模様を作る事は出来ないだろうし、狙って何かしらの模様を作るなど無理。
 だからこそ、「もぢずり」は好まれたのかもしれない。
 「自分だけの模様」として。
「それに、掘り起こしたのは、その土地の人にとっては、とても大切な宝だったんじゃないですかね?」
 ニコニコと笑顔でそう言ったのは、数時間前に出逢ったばかりの男性だ。
 何でも「冒険家」らしい。配られた名刺には「五代雄介」と書かれていた。
 人に警戒心を与えない笑顔と、フレンドリーさ全開のオーラに、まず真っ先に霧雨さんが懐いた。それこそものの数秒で、どこかで見たような「友情のシルシ」まで交わして。
 まあ、だからこそ「危険人物ではない」と認識し、こちらもそれなりに警戒を解き、一緒にいるのだが。
 おまけに、この辺りは既に「冒険済み」らしく、ガイド役の様な物を買って出てくれたのだからありがたい。その地域の謂れや伝説と言った事にはあまり詳しくはないようだが、風光明媚な景色の見える場所という点では相当詳しい。
 冒険家であるせいか、彼の案内する場所に到るまでは足場の悪い道が多いのは難点だが、その辺りはさしたる問題にはならない。何しろこちらは「普通の人間」からはかけ離れた存在だ。
 ……もっとも、「ごく普通の女性」だったら色んな意味で悲鳴を上げているかもしれない道程が多かったのだが……彼が案内してくれた場所は、掛け値なしに美しい景色だった。
 その中でも、ここは比較的……と言うかあからさまにまともな部類に入る場所にあった。まあ、寺なので当たり前と言えば当たり前なのだけど。
 静かで、そして少し落ち着く景色が広がっている。その景色の中心が、あの柵に囲まれた岩……「鏡石」とも呼ばれる「信夫文知摺石(しのぶもぢずりいし)」だ。
「しのぶもぢずり……って、確か百人一首の十四だったか」
「『陸奥の しのぶもぢずり 誰ゆゑに 乱れそめにし われならなくに』って奴ですね」
「う? 何ですか、それ? じゅもん?」
 ポツリと呟いた弓さんに、五代さんはサムズアップと共に歌を返す。その足元では、聞き慣れない和歌に首を傾げる霧雨さんがいる。
 ……三十一文字(みそひともじ)に「想い」を込め、相手に送るという点で考えれば、あながち呪文という考え方も間違ってはいない。
「呪文ではなく、和歌と言います。昔の人の詩ですよ」
「ふぅん。でも、なに言ってるかよくわかんないです」
「千年近く前の、古語ですから」
 今の話し言葉とは、あからさまに異なる古語。それがゆえに、今は訳さなければ意味を成さぬ物と化してしまっている。
 仮に本当にこの和歌が、霧雨さんの言う通り「呪文」としての効力を持つ物だったとしても、きっと現代においてはその効力は薄れてしまっているだろう。何しろ、相手にその意味が伝わらないのだから。
 でもまあ、今の言葉と通ずる部分もあるだけマシかもしれない。何しろ身近には今の言語とは全くかけ離れた古代語を用いる人工モンスターが存在しているのだから。
「俺も意味をよく理解していないんですけど……ちょっと悲しい感じの歌だなって言うのは分かります」
「そうか?」
「だってほら、下の句の『われならなくに』って、何だか『私なら泣くのに』って言ってるみたいで、悲しくなりませんか?」
 言いながら、五代さんの眉が八の字に下がる。
 恐らく彼は、「我ならなくに」を「我なら泣くに」と漢字変換したのだろうか。本気でそう思っているらしいのは、表情を見れば分かった。
 ……しかしそれは壮絶な誤解だ。「我ならなくに」の本来の意味は、「私なら泣くのに」ではない。
 今ならば確かにそう捕えても不思議はないのだけど、如何せんこの歌が詠まれたのは古今和歌集の時代。つまり平安時代ど真ん中だ。当然、読み方や文法などは私達の知るそれとは大きく異なっている。
「だから俺、その部分は変えた方が良いんじゃないかなって思うんですよね。『我なら笑むに』とか、そう言う明るい感じに」
「確かに、『泣く』よりは『笑む』の方が、イメージは良いよな」
「でしょう?」
 どうも、弓さんもその「文法の違い」の辺りに気付いていないらしい。力説する五代さんに対し、納得したような表情で頷いているのが見える。
 更に霧雨さんも同じ事を思っているのか、いつの間にやら弓さんの足元で彼らに同意するようにこくこくと首を縦に振っている。
「ないちゃダメです! 笑うほうがいいです」
「やっぱりそう思う?」
「ん」
 五代さんの問いに、霧雨さんが力強く頷きを返し、更には互いにサムズアップまで交わす。
 恐らく、五代さんと霧雨さんの波長がひどく合っているのだろう。五代さんも霧雨さんも、笑顔の絶えない人だし、彼らの笑みは周囲をも笑顔にする……即ち「純粋な笑顔」だ。
 ……いやいや。彼らの笑顔に押し切られている場合ではなくて。
 このまま行くと、彼らはずっと誤解したまま進みそうだ。いや、別に勘違いしていようが構わないのだが、勘違いされたままでは「歌」その物が可哀想と言う物。
 思い、私は軽く息を吐き出すと本来の意味を彼らに告げた。
「……あれは『泣く』ではなくて、『無し』の変形ですよ」
「へ?」
「『我なら無くに』。今の言葉にするならば、『私のせいではないのに』。百人一首に収録されている方を訳せば、『しのぶもぢずりの模様のように、私の心は乱れはじめています。誰のせいなのでしょうか。私のせいではないのに』という、恋焦がれる者へ送った遠距離恋愛の歌です」
「……詳しいな、硝子」
「伊達に長生きはしていません」
 苦笑混じりの表情で言った弓さんに、私は軽く笑いながら言葉を返す。
 弓さんの脇では、五代さんはそうなのかと感心したように頷き、霧雨さんには難しかったのかきょとんとした表情で首を傾げられてしまった。
 ……最初にその意味を聞いた時は、何と女々しい男だろうと思ったものだ。
 しかし、この歌を詠んだ背景を知って、そして弓さんと出逢って、私はこの歌に詠まれた女性に対して羨ましく思った。
 逢えなくなったのは自身ではどうしようもない「権力」のせい。遠く離れても心かき乱される日々を送り、己の想いを言の葉に乗せるしか出来ない。再会を約束しても、それは確証のない約束。それでも「想っているよ」と伝える為に送られた歌だと聞いている。
 自分に焦がれてくれているのだと、女を自惚れさせるには充分な歌だ。
 でも……だからこそ、私は百人一首に収録された「乱れそめにし」ではなく、古今に収録された「乱れむと思ふ」の方を好む。「心が乱れはじめる」と言われるよりも、「ずっと心乱されている」と言われた方が、想われているという実感が増すし……何より、そちらの方が男の本気度が高いように思うからだ。
 私なら恋焦がれた相手に、例え一瞬でも自分の事を忘れて欲しくない。頭の片隅でも良いから、自分の事を常に考えて欲しいと思う。
 それは、単純に私のわがままなのだけれど。
「泣いてる訳じゃないのは分かりましたけど……でも、やっぱり寂しいですよ、その歌」
「……え?」
 唐突にもたらされた五代さんの言葉に、私は思わず彼の顔を見やる。
 浮かんでいるのは、やはり笑顔。しかしその笑みの中に、どこか寂しげな雰囲気が混じっているようにも見える。
「だって、逢いたいのに逢えないのは寂しいです。お互い生きてるんですし、逢えないなら、逢いに行けばいいと思いませんか?」
「ああ、それは同感。万難を排してでも逢いに行く、くらいの事は言えって」
「ん。よくわかんないけど、がまんするのはよくないです」
「……そんな駄目出しをされても」
 五代さんの言葉に賛成する弓さんと霧雨さんに対し、私は苦笑を浮かべつつもそう言葉を返す。
 勿論、私が詠んだ歌と言う訳ではないのだし、特別この歌に思い入れがあると言う訳でもないが……どうにも一人アウェイな感じがするのは私だけか?
 しかし、確かに。
 本当に逢いたいなら、何が何でも逢いに行くべき……という考えもあるだろう。当時の交通の便を考えれば、ひどく難しい事だったかも知れないし、価値観の違いも大きいのかもしれないが……それでも、生きているなら逢いに行けたはず。
 ……と言いたいのだろう。昔の私も同じ事を思ったし、彼らの言い分も分かるのだが。
「同じ百人一首には、『わびぬれば 今はた同じ 難波(なにわ)なる みをつくしても 逢はむとぞ思ふ』っていう歌もあるんですし」
「う? ゆーすけお兄さん、どういう意味ですか?」
「簡単に言うとね、『何が何でも逢いたいと思います』って言う意味だよ」
「おお」
 五代さんの諳んじた歌には、確かにそう言った意味がある。
 「逢えなくて涙で袖を濡らす」とか「待ち続けて夜が更けた」系の恨みがましい印象をうける短歌が多い中、彼が諳んじた歌は、珍しくも情熱的な歌だ。こちらの方が確かにウケは良いだろう。……背景さえ知らなければ。
 だからこそ、何も知らない霧雨さんは感心しているのだと思う。そして恐らく、五代さんも背景を知らないのではないだろうか。だからこそ、今、ここで引き合いに出したのではないだろうか。
 そんな風に思いつつ苦笑を浮かべた私に、五代さんは更に綺麗な笑みを浮かべ……
「逢えないで涙するより、逢って笑顔になる方がいいですよ。……それに、言葉に罪はありません。詠んだ人間に罪があったとしても。勿論、自分の笑顔の為に他人を犠牲にするのは、あってはいけない事だとも思ってますけど」
「……五代さん……ご存知なんですか? その歌の背景」
「百人一首も、俺の技の一つですから」
 それまでと全く変わらない穏やかな口調に、更にサムズアップまでプラスして告げられた言葉。言った本人は固まってしまった私に背を向け、帰りの道案内に乗り出した。
 …………どうやら、私は彼の事を見くびっていたらしい。彼は、あの歌の背景を知っている。その上で、諳んじたのだ。「言葉には罪が無いから」と。
 「二千の技を持つ男」を言う肩書きは、伊達ではなかったと言う事か。
 この人は、誰もが一度は望み、そして大抵の者が諦めてしまう「願い」を芯に持っている。だからこそ、彼は常に笑顔なのだろう。
 全く、無害そうな顔をしていながら、実に食えない人だ。愚かしくて、稀有で、自分よりも他人を優先するタイプとでも言うべきか。
 嫌いではないが……どちらかと言えば苦手な部類に入る。こういった人は、「皆の為」と言いながら、その「皆」の中に「自分」の存在を無意識の内に除外している事が多い。
 それが周囲の親しい人間に、ひどくもどかしい気持ち……更にはそれを突き抜けて無力感さえも与える事もあると言うのに。
「いや、それは私も同じか」
――乱れむと思ふ 我ならなくに――
 落ち着かない気持ちである。私のせいではないのに。そして……心配で泣いてしまうのに。
「今なら、そう訳しても……良いのかも知れませんね」
「ん? 何か言ったか?」
「……いいえ。ただ少し……反省していただけです」
 弓さんの問いを曖昧に濁し、私は彼らの後を追う。
 己を省みない自分自身の事と、そして愛する者と共にいられる「平凡な幸せ」を、改めて感じながら。



――小噺・帰り道にて――

「そう言えば、百人一首には現代でも(まじな)いとして使われる歌がありましたね」
「へえ? どんなのです?」
「十六番『たち別れ いなばの山の 峰に生ふる まつとし聞かば 今帰り来む』です」
「雰囲気からして、別れの歌にしか聞こえないんだが?」
「『お別れして因幡の国へ行く私ですが、稲羽山の峰に生えている松の木のように、私の帰りを待つと聞いたなら、すぐに戻って参りましょう』が対訳です」
「ああ、そう聞くとまあマシな印象だな」
「現代では、いなくなった人や物が帰ってくるように、という呪いとして使われていますよ。寂しいという想いが伝わるように、そしてそれがいなくなった者への道標となる様に」
「やっぱりじゅもん?」
「かもしれません」
「じゃあ、そのじゅもんはウサギさんが帰ってくるのを待つのかな?」
「? 何でウサギなの?」
「う? いなばの白兎さんのおはなしじゃないんですか?」


とか何とか言ってそう。ちなみに、「わびぬれば」は人妻との不倫が発覚した男が開き直った歌だったり






22222番「Re:魔法戦隊マジレンジャー&仮面ライダー剣」

25000番「壊れ物にはご用心」


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