短編集

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それは突如として目の前に現れた。

木枯らしの吹き始めた秋口の頃の事だ、旧知の仲である悪友と共に爆発物処理班の双璧などと呼ばれるようになっていたが、この日萩原は休暇だった。とは言え呼び出しがあれば早急に現場に出向かなければならない訳だが、せいぜいそんな事態が起こらないことを願いながら街をぶらついていた。都会のカラスがすぐそこの電線に止まり、気にもとめずに通り過ぎると萩原を追い越して路地裏に消えていった。カラスは賢い動物だ、人が足を踏み入れないような所に自分で餌場を作るとも聞く。その類なのかと思い特に気にすることは無かったが、その路地裏に差し掛かると荒い羽音が聞こえてきた。猫と喧嘩でもしているのか、と呑気に構えて覗いてみると、数羽のカラスが何かに集ってつついていた。

「何だ…?」

目を凝らして見てみれば、カラス達の中央にいるのは人のような姿をしていた。

『痛、痛い、やめてくれ、光り物など持っていないぞ、痛、やめろ』

少女、とまでは行かないが、声は若い女のようだ。口調は妙だが、抵抗が余りにも弱いのがどうにも無視出来ず、集っているカラスを追い払ってやった。

「大丈夫か、あんた」

蹲った鶯色に声をかければ、そろりと顔を上げた。

『…すまない、助かった』
「あ…あぁ」

彼女の顔には、目隠しのように布が巻かれていた。中央には何か文字のような模様が綴られている。怪しい宗教団体の構成員か何かだろうかと一瞬疑った。黒い羽織のその女は、埃を払って立ち上がると再度こちらを見た。

『ただの烏に絡まれるとは我ながら情けないが、一先ず礼を言おう、人の子よ』
「は…?」

それはまるで、人ならざる者と言ったところだ。しばし困惑していれば、その見えてるのか見えてないのかはっきりしない目隠れ女は首を傾げた。その仕草は妙に人間じみていて、そんな反応をしたいのはこちらの方だ、と額を押さえるハメになった。とりあえず彼女の発言については忘れることにして、話を逸らす。

「それより、カラスなんてあしらってやれば逃げてくだろ?なんでやられてたんだ」
『あの生き物は恨みを買うと厄介だ。執拗なまでに啄んで来る上に祓うことも出来ない、実に面倒だ。だからお前が来てくれて助かった、この恩義はその内に返そう。そうだな、お前の身に何かある時、それらからお前を助ける。それをこの度の礼としよう』

意外にも義理堅い、むしろ後腐れがないとも言える。恩に対しての礼がかなり大きな話に聞こえるのは気になるし、本気にするのはやめておいた方がいいかも知れない。見た目からして怪しさしか感じないこの女を信じるには難しいにも程がある。

『私は憂希。お前の名は』
「萩原だ」
『そうか』

反射的に答えてしまった。まずいと思った時には既に後の祭りだ。

『妖相手に本当の名を易々と明かすものではないぞ、人の子。ではな』

女の言葉に返事をする前に、突風が吹き抜け思わず顔を覆った。凪いだ時には既に女の姿はなく、薄暗い路地裏には枯葉が点々と落ちているのみだ。あの一瞬で身を隠せるような場所は当然無い。本当に彼女は、人ではない者だったのだろうか。

白昼夢でも見ていたのではないかと思う出来事だったが、友人には到底話せない。信じてもらえるはずもない、そもそも自分でも信じ難く思っている事を、どう他人に信じろと言うのか。

「どうした、萩原」
「いや、何でもない。それよりどうだ、今夜飲みにでも行くか?」
「おぉ、いいな。と言いたいところだが、悪いが先約がある」
「ん?まさかお前、女でもできたか」
「違う。まぁ確かにその辺のやつよりは小奇麗な顔してるが」
「なんだあいつか」

友人、松田が妙に構っていた後輩という奴だ。盗める技術はいくらでも盗むような、向上心とプライドの塊のような男。あれほど警察向きな人材も居まい。彼なら本当になってしまうかもしれない、この日の本全てを背負う存在に。何せ警察庁発足以来の鬼才とまで噂されていたのだ。配属先の関係で、当面表舞台からは存在を抹消されているのだろうが、個人的な繋がりくらいは少なからず残っている。松田を挟んで知り合ったとはいえ、それなりの友好関係は築いていた。先約とやらに同行する気を起こせば、溜息を吐かれつつも承諾された。煙草を咥えたまま手早く携帯を操作している辺り向こうに伝えているのだろう。
結局その夜は他愛もないやりとりで盛り上がり、ただひたすらに心が満たされた。この何気ない日常の中に身を置く内にいつかに出会ったものと交わした言葉など、記憶のどこか奥の方に追いやられていた。

発端はとある爆破予告。二つの場所にそれぞれ爆弾を仕掛けたという旨の犯行声明が警視庁に送られた。目的は金、不特定多数の一般市民を人質に取っての脅迫だ。当然犯人を突き止めるべく、そして爆弾を解体し市民の命を守るべく決死の大捜索が行なわれた。幸い爆弾を発見することは出来たが、それらは民間の住宅マンションにそれぞれ配置されていた。犯人達は警察の動きを知り、住民を逃せば即爆破すると警告し身代金の要求を続けた。同時に、回答を先延ばししたところで、時限式のそれはいずれ爆発してしまうのは目に見えている。市民の安全のため、仕方なく犯人達の要求を飲み、避難誘導と爆弾の解体が行われる運びとなった。担うのは爆発物処理班の双璧。一つは萩原が、もう一つは松田が解体する手筈だ。
要求を飲んだ事により、爆弾のタイマーは停止している。ディスプレイの残り時間は6秒だが、止まっているのだから特に支障はない。住民の避難完了と共にのんびりと解体を始めることにする。それまでの間煙草をふかしていれば、悪友からの着信だ。どうやらもう片方の爆弾は解体を終えたようだ。
あれくらい、3分もあれば十分だ。とは松田の常套句。
どんな設計のものを前にしても変わらないその言葉、自分の技術に確固たる自信がなければ言える代物ではない。

─やれやれ、ダチに天才が多すぎて困るな。

そんな事を電話口でのやりとりの裏で考えていた。その時である。
住民の避難完了を告げられ解体にかかるかという時、突然タイマーが再び時を刻み始めたのだ。即座に退避を指示するが、5秒足らずで爆発から逃れる場所へ行けるかと聞かれれば不可能と答えるしかない。しかしその瞬間まで足掻きたいと思ってしまうのが生き物としての性なのか、通話中の携帯すら放り出して走り出していた。3、2、とタイマーに示されているであろう数字を脳裏に浮かべた瞬間。

「っうわ!」

物凄い力で何かに首根っこを掴まれ、引き摺られるように反対方向の窓に身体は突っ込んでいく。窓ガラスは自身が衝突する前に砕け散り、高層マンションの外に放り出された。刹那、直前までそこにあった光景は爆炎の中に消えた。
頭の中が、真っ白になった。
爆風のせいなのか、自身を捉えた謎の引力のせいなのか、どちらともつかない速さで黒煙から遠ざかっていく。周りにいた隊員達はどうなったのか。なぜ自分だけが空を切っているのか。突然の事過ぎて、思考回路が動かない。

呆けてしまった萩原の意識を呼び戻したのは、どこかで聞いたことのある声だった。

『無事か、萩原』

淡々とした、女の声。地面に降り立って漸く確認できた姿は、黒い羽織に鶯色の髪、そして目隠しの布。

「あんた…確か」

人ではないものと自称し、それを裏付けるように消えてしまった。不可思議な女。確か憂希と名乗っていた。

『あの時の礼だ』
「…随分、割に合わない恩返しだ」

思わず苦笑してそう呟いた。彼女はまた不思議そうに無言で佇むので、真意を告げる。

「俺はただ烏を追い払っただけだぞ。その返しに命を助けられるとか、普通思わないだろ。いくら何でも、大袈裟過ぎる」
『私が助けられたのは事実だ。その恩を返したまでの事。内容など関係ないだろう』
「そりゃあそうだが…」
「おい人間」

ぬっ、と巨大な影が突然差した。

「うわ…!?何だこのデカイの!」
「あれしきで死ぬようなか弱き人間なんぞをこの私が助けてやったのだぞ。感謝こそすれ、拒絶するとはどういう了見だ」

厳かなトーンで何処と無く怒りも含んだ声の主は、暗い青の毛並みを持った獣のような、西洋の龍のような姿をしていた。例えるならペガサス…というよりマルコシアス──狼の体にグリフォンの翼、蛇の尾を持つ悪魔の一種とされる幻獣──だろうか。恐らく今し方萩原を空中浮遊させたのはこの生き物の仕業だろう。

『やめろトビヒ、お前が姿を見せると騒ぎになる』
「フン、どうせ人間共は先程の爆発に気を取られておろう」

そう言いながらも、トビヒは消えた。それが居た空間には何の変哲もない暗い路地があるだけだ。いよいよ幻覚でも見え始めたか、と遣る瀬無い思いを感じる萩原を余所に、憂希は平淡な口調で話を続けた。

『お前の命は助けたが、少しややこしくしてしまったかも知れんな』
「どういう事だ」
『お前が助かった経緯、到底理解されないだろうからな』

彼女が語った言葉は、薄々、勘づいていた事だ。憂希が妖である事は紛れもない事実で、本来、人の眼には映らない存在。彼女がこの時のために連れてきたトビヒも同様だとして、見えないものをどう信じさせろと言うのか。恐らく、あの現場を見ていた人々の中では「萩原研二」という人間は死んだと、確立されたことだろう。それは勿論、あの悪友の中でも。

ならば、今息をしている自分は一体誰なのか。

そう思い至った時、この妖の恩返しが大袈裟などではない事を思い知った。これは代償だ。自分の存在を殺しながら生き永らえる、まるで呪いのようなものだ。もし自分は生きていると大衆の前に出ていけば、どうやって助かったのかと問われるのは必至。そこで事実を話したところで、事故のショックで精神を患ったと見なされてそれで終わりだ。幻覚を見る警察官など当てにならないと、職も失うだろう。結局、意味合いは違えど自分は死ぬのだ。

「ならいっそ、別人としてセカンドライフでも始めますか」

口をついて出たのは、随分と楽観的な言葉だ。このご時世、偽名を使って生きていたとしてもさほど支障はない。指紋認証などの類いとは縁を切らなければならないが、それとて生きていく上での必要条件ではないのだから。適当に経歴を捏造し、静かにひっそりと生活する程度の事は、可能だ。

『…それが良い。やはり弱い物は知恵を持つのだな』
「そりゃどーも。さて、一番は偽装戸籍を作れれば良いんだけどな…流石にこの状況で本庁に忍び込む訳にも…」

何分完全に機動隊の服装だし、周囲に顔を覚えられている。他人の空似で通る方がおかしいくらいだ。

『一つ、妙案がある』
「…協力してくれるのか」
『ここで突き放す程私は鬼ではない。私の羽織を貸してやろう。妖は今でこそ人に見えないものだが、元は気付かれにくいただの現象に過ぎない。その妖の物を纏っていれば、多少は人に見つからずに済むはずだ』
「現象、か…。多少ってのはどのくらいだ?」
『…例えば、ガラスの前に立つ人間の後ろをお前が横切る、するとガラスには映るが、人が振り返ってもお前の姿はない。そんな程度だ』
「充分過ぎるな」

それなら問題なくセカンドライフのスタートラインに立てそうだ。萩原は妙案の通り、憂希の羽織を借りて往来へと繰り出した。



End

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