短編集

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あの爆弾事件から早くも2年が過ぎ、人々の記憶から徐々に当時の事は薄れ始めていた。人間とは随分と、軽々しく何かを忘れていく生き物だと、憂希は死期という側面から人を見続けて思っていた。あの一件で死んでいった者達、死んだことになっている男の事は、殆どの人間の意識からは消え失せている。だがそこに憂いはない。憂希は人ではなく妖、人ではない故に感情というものの動き方に人間とのズレがある。悲しい過去を忘れていく事を嘆くつもりはない、だが、忘れていく事でしか前に進めない人間を、ただ、愚かしく思う。

愚かで、脆く、儚い生き物。だからだろうか、気まぐれに救ってしまったのは。

仮の名を呼んだのは萩原で二人目だ。一人目は私にその名を付けた人間だが、彼女もまた時の流れによって儚い命を散らした。思い出だけを大事そうに抱えて旅立って逝ったのはいつの事だったか、人間の時間に置き換えればあれからかなりの年を重ねたように思う。思い出す事などないはずの彼女の事を今になって思うのは、あの人の子を見たせいだろう。
少しだけ色褪せた写真の中ではにかんでいた金色の人の子、名前こそ思い出せないが、ふと見かけたあの子は、恙無く育っていた。大人とやらになっていた。

─あぁ、ようやく解った。

あの人間が、もう会えもしない子供に残した想い。ただ、幸せを願う。それだけの事なのだと。独りになってしまうあの子を、ずっと案じていた彼女の心に報いるように、あの子はもう独りではなかった。

『あの人の子は、あんなにも綺麗に笑うのだな』

呟いた言葉は私らしくもなく。
交わってはならない存在、縁を結んではならない私が、思いを残してはならないのに。その役目は、恐らく今あの子の隣を歩く、友人にある。せめて、伝わることの無い思いを彼に託すことにしよう。
私を通り過ぎたその二人のうち、黒髪の男と、目が合った。



それを見たのはほんの一瞬だった。
潜入捜査で他人を演じ続けるのはかなり精神を疲弊する、初めはただ、幻覚を見たのだと思った。隣を歩く幼馴染みは恐るべき精神力で三つの人格を使い分けているくらいだから、その幻を見なかっただけなのだと、そう軽く考えていた。
その幻は、人の形をしていた。黒い羽織を纏い、鶯色の短い髪はなびくことも無く、目元は奇妙な印の書かれた布で隠されていた。その奇怪な出で立ちに思わず目を向けてしまったが、目隠ししているにも関わらず、その幻もこちらを見ているように思えてすぐに逸らした。通り過ぎた後でもう一度視線を向けると、それは忽然と姿を消していた。

「どうした?」

何も無かったかのように降谷が問う。そこで自分にしか見えていなかった事に気付いた。

「いや、何でもない」

あれは何だったのだろうか。疲れが見せた幻覚…それとも、いつ訪れるかわからない死への案内人だろうか。



男は、確かに憂希を視た。見える筈の無い姿を、明らかにその瞳に映したのだ。それが何を意味するのか、分からないはずがなかった。あの男は、近い内に命を落とす。死相が出ていた。死期が近い事を示す、陰のようなもの。すっかり見慣れたそれに、今更何を思う訳ではなかったが、ふと脳裏に過ぎったのは、あの金色。

─彼が死んだら、あの子はまた、独りになるのか。

独りは寂しい、それだけは知っている。独りは、悲しい事だ。ならば散らそうとするその命、拾ってやることにしよう。
憂希は風に残る彼の気配を辿り歩き始めた。

男の残り香を追って辿りついたのは薄暗い場所だった。照明の問題ではない、空間に満ちている悪意が陰となり暗く見せているのだ。妖の悪意とは全く別の、人間の負の感情。それらが渦巻いているせいか、それらを糧にする下等のものも幾らか入り込んでいる。これらにしてみれば寄生などせずとも生きていけるだろう。それほどに、ここは淀んでいる。
すれ違う人間こそ疎らだったが、人の気配が全く途絶えたところで男は言葉を発した。

「どこまでついて来るつもりだ?」
『…何だ、気付いていたのか』
「これでも気配には敏感なんだ。他の連中は見えないような素振りだったのは気になるが、あんた、何者だ」
『お前は何だと思っている』
「…信じている訳じゃないが、死神の類か?」

死神、的は射ている。死期の迫っている人間の中には憂希を視る事ができる者もいる。それ故、一部の人間の間では、姿を視るだけで死ぬとも言われている始末だ。

『そうかもしれないな』
「…俺は死ぬのか」
『恐らく、そう遠くない内に』

まだ若いであろうこの男は、あまり動じなかった。いつ死んでもおかしくないと、覚悟を決めているような、そんな目をしている。それで良いのだろうか。憂希はまた、あの人の子を思い出した。彼を残して逝くことを、後悔はしないのだろうか。つらつらと考えが浮かんでキリが無い、抱えるには重たすぎるそれはこの男に押し付けてしまおうと、言葉を紡ぐ。

『お前は私を死神と言ったが、私にはお前を死者の国に連れていくことは出来ない。ただ解ってしまうだけだ、お前が死ぬことを。それだけの事なのだ。だがもし、お前に思う事があれば、救ってやる。お前が死ぬ時、残されてしまう人の子に思い残すものがあるのなら、私を信じろ』

男は目を見張っていた。恐らく、どこまで知っているのかという、疑念。生憎、その疑念を晴らしてやる術は知らない。人間の事情など知らないからだ。この男がこの淀んだ場所で何をしているかなど、興味もない。

「どうして、そこまでしてくれるんだ」
『…お前の為ではない。お前が死んだら、あの子はまた独りになってしまう。それは何だか嫌だ。釈然としないのだ』
「そうか…あんた、あいつの…」

納得したように呟いた男の眼は、酷く優しかった。解釈は恐らく間違っているだろうが、否定する気は起きなかった。憂希があの金色の彼を案じているのは、疑いようのない事実なのだ。

『私は憂希。お前の名は』
「……、スコッチ。ここでは、そう呼ばれてる」
『仮の名か。人間にしては機転が利くようだ。妖相手に軽々しく本当の名を明かすものではないからな』
「…そういうつもりは全くなかったんだが。ってか、アヤカシ?」
『人間で言うところの、妖怪というやつだ』

実在したのか、とポツリと零すと、再度言葉を投げかけた。

「その割には、名前は随分と人間的なんだな」
『あぁ、私のこれもまた仮の名。名付けたのが人だからだろう』
「じゃあ、本当の名前もあるのか。どんなだ?」
『それを答える義理はない』

ピシャリと言い切れば、あっさりと引き下がった。自分とて真名を明かしていないからだろう。もし男の方から本名を名乗ることがあれば、その時は明かしてやってもいい、と思う。

『では、私はそろそろ行く』
「あぁ。話せてよかった」

男は、またな、と手のひらを向けた。次に会う時はお前が死にかけている時だろうな、と憶測を言えば、洒落にならんと苦笑されたが、悪い気はしない。周囲の悪意などは彼の前ではくすんでしまうようで、つくづく、この場所には似つかわしくない男だ。そんなことを思いながら、他の人間に万が一にも見つかる前に、憂希は茜色の差す外へ向かった。

『僅かだが、彼奴の匂いがした…どこかで縁があったのだろうな』

人の縁の奇妙なところは、不思議とどこかで繋がっていることだろうか。思い出してみるとなんとなく気になり、新しく暮らし始めたという場所に行ってみることにした。その近くまで来ると、偶然にも見かけることが出来た。彼は、萩原はあの時貸した羽織を着ており、公園の木の上に居る。
枝の先には赤い風船が引っ掛かっていて、木の根元で、幼い少女が泣いている。風に飛ばされでもしたのだろう。それを見ていたからなのか、取ってやろうとしているのは一目で分かった。

『お人好しだな…』

風もないのに、枝葉はカサカサと不自然に動き音を出す。その様子に気付いた少女は泣くのも忘れ、揺れる枝を見つめていた。この少女の目には、一人でに枝が動き、風船が意志を持ったように自分の元に近付いてくるように見えている事だろう。少女は目の前に浮かぶ風船の紐におずおずと手を伸ばし、少し笑った。萩原はそれを見届けると、分かるはずも無いと知りながら少女の頭を撫で、踵を返した。
風船を持ったまま、少女は暫く何も無い空間を見ていた。もしかしたら、何かを感じ取ったのかも知れない。物心つく前後の子供なら、時々妖を視る事があるものだ。少女がまさにそうだったのかは分からないが、不自然に動いていた木の枝に向かって、呟いていた。

「ありがとう、おばけのおにいさん」

それを聞くべきは、もうどこにも居ないというのに。だがそれで良いのだろう、どうせいつかは、この少女も忘れてしまうことなのだから。縁など、結ぶべきではないのだ。例えそれが妖の振りをした人間だとしても、もう会うことはないのだから。

『萩原』
「お…っと、憂希か」
『上手くやっているようだな』
「あぁ、やっと生活も回るようになったし」

戸籍は作ったとはいえ、初めのうちは住居を借りて日雇いの仕事をこなすようになるまで少し苦労していたようだが、今では軌道に乗っているようで、時折人知れず人助けをしに巡回しているようだ。趣味に金をかけられないとやる事がなくて暇だから、ということらしい。

『余計な口を挟むつもりは無いが、せいぜい気をつけるんだな。お前は人間だが、その羽織は妖のものだ。妙なものが気配に引き寄せられてくる事もあるだろう』
「そうなのか…」
『もし妙な気配がするようなら、寺や祠を探すと良い。害をなす者ならそこには近寄れないはずだ』
「…ありがとう、まぁ気を付けつつやってみるさ」

萩原は相変わらずの調子に見えるが、どことなく、迷っているような気がした。



End

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