短編集

□さよなら、世界。
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未曾有の大災害が、憂希のふるさとである神栖66町を襲ったのはごく最近の話である。驚異が過ぎ去った後に残されたのは甚大な被害と、生き延びた安堵、そして多くの命が失われた悲しみだった。未だ復興の目処は立っていないが、この災害に終焉をもたらしたあの人がいれば、必ず町は再建する、そんな予感がしていた。しかし、自身に降りかかる突拍子もない出来事を予期することは、およそ不可能だった。

茅輪の郷にある小高い丘の上、幼少期の憂希が密かに置いた名前のない墓石が、陽の目を避けるように座していた。ここに眠っているのは妹だ。と言っても遺骨が収められている訳でも、この場所で命を落とした訳でもない。単に、人生を短くしてこの世から消えた彼女に追悼する場所が欲しかった。ただそれだけだ。
初めは名前もちゃんと彫ってあったのだが、誰かに見られるとまずいので、呪力で後から消した。何せ、妹がこの世界から脱落の烙印を押されたことを、誰も覚えていない。彼女が存在していた事実を忘れているのだ。周りが薄情だった訳では無い。むしろ思いやりに溢れる町だと、表向きには捉えていた。なぜ誰もが妹のことを忘れているのか、それは至極簡単なこと。思考を管理されていたからにほかならない。妹と関わりを持っていた子どもたちは皆、暗示によって彼女の抹消に一切の疑問を持たぬよう思考を操作されていた。大人達の教育、基、洗脳にも似た暗示を繰り返し刷り込み、そう仕向けるのだ。今思えばその異常性は明白だが、当時は、それが当たり前の事だった。

『…今度はもっと、いい社会になってほしいわね。あなたのような子供を絶対に出さない、誰も犠牲になる必要の無い、そういう町にしていかなければならない…ねぇ、お姉ちゃんのこと、応援してくれるかしら』

憂希の呟きに答えるかのように、一陣の風が吹き抜けた。西に向かって吹いた風に釣られてそちらに視線を移せば、眼に痛いほどの赤が地平線に沈みゆくところだった。のどかな田園風景が広がっていたはずの丘の麓は、薙ぎ倒された木々や壊れた家屋の瓦礫で埋まり、荒野に成り果てている。戦果の爪痕がまざまざと残る景色の中、真っ先に復興を図られた公民館からは、なけなしの電力を使い家路のメロディーが流れていた。寂しいような、暖かいような、何故か胸を締め付けられる、それでいて穏やかに染み渡る。幼い頃から聞いてきた日没の合図、野山を駆け回っていた日々が目に浮かぶ。もう、あの頃の仲間は皆居なくなってしまった。

ピシリ、鏡にヒビが走るような音が耳の奥で聞こえた。世界が止まってしまったように、何の音も聞こえなくなる。雲も、木々も、空を飛ぶ鳥さえも、石化したように微動だにしない。生き物の呼吸さえ、感じられない。一体何が起こっているのだろう。気分が悪い、眩暈がして視界が歪み始めた。

世界が、暗転した。



視界が開けた時、言い知れぬ恐怖が襲いきた。白い壁、木目柄なのに大理石のように冷たい床、棚のようなものに、足のついた奇妙な黒い板が立っている。机や椅子などが置いてあることから、どこかの家らしいことはかろうじて分かった。扉は襖一枚分ほどの板で、恐らく公民館などと同じだ。憂希の中にあった家屋というイメージからは、随分かけ離れた空間だった。

『ここ…どこなの』

そもそも、奇妙ではあるが屋内にいるのもおかしな話だ。つい先程まで妹の墓石の前で黄昏ていたはずなのに、一瞬の内に移動したと言う事だろうか。浮力感はなかった。呪力を受けた感覚もなければ、憂希に浮遊術は使えない。

『…今は移動経路より現状把握ね』

どうやって来たかは、後からいくらでも考えられる。それよりも現在置かれている状況を把握しない事には行動も起こせない。この空間が家屋だと仮定すれば、家主の痕跡や所在地を掴む手がかりがあるかもしれない。憂希は部屋の中の、書物の詰まった棚を見渡した。書かれている言語は粗方読める。日本語である事は間違いない。書籍の表面が随分つるつるとした手触りなのは気になるが、本には変わりない。手に取ったのは、先史時代に存在したとされる小説のようなものだった。

『実話…ではないのかしら』

空想の物語であるなら、現状を把握するには不十分だ。その本を棚に戻した時、後方の扉の向こうに何かの気配を感じた。途端に恐怖心が身体を支配し、動きを鈍らせた。もし、得体の知れない存在だったら…そう思うだけでその場から動けなくなった。いよいよその扉が開かれようとした瞬間、憂希はその身を隠すように大きな鏡を呪力で作り出した。その影から、鏡の向こうの様子を伺う。裏側からは、水の中から水面を見上げるような揺らぎを伴って見通せるのだ。
扉が開かれ、現れたのは人の姿をしていた。体格からして男性だろう。しかし、その姿は記憶の中の誰とも一致しない。彼のような肌の色をした人間を、今まで一度も見たことがなかった。つい最近の記憶のせいもあり、よもや、人類が最も恐れる存在の一つではないだろうか。そんな悪い想像までしてしまう。

「…鏡?」

何故こんなところに、と訝っているのは明白だ。恐らく彼がこの家屋の家主なのだろう。どう出るだろう、はっきりとした言葉を紡いでいたから恐らく同胞だろうが、それなら呪力でこの鏡を吹き飛ばしてしまうはずだ。
彼は注意深く鏡を観察していた。どうやら隙間を探していたようだが、生憎壁の幅に合わせている。それを悟った次の瞬間、彼は憂希が目を疑う様な行動に出た。
呪力で作り出した鏡を拳一つで割って見せたのだ。
憂希は驚愕し、彼の顔を見た。彼も、鏡の裏に隠れるようにしゃがみこんでいた憂希に目を見開いていた。鏡は破片ともども霧散して消え失せ、間を隔てるものはなくなった。

「あなたは、誰ですか」

あぁ、これが疑念を持った人間の眼なのか。置かれている状況に反してこんな事を考えるほど、憂希の思考は急速に冷めた。

『あなたの方こそ、何者なんですか』

呪力を使わずして鏡を消してしまった、それだけでも信じ難いことだ。普通なら彼の拳に呪力による付加が加わっていたと考えるところだが、呪力を使う人間なら、そんな動作を起こさずとも対処できる事は知っているはずだ。それに、自分が作り出したものに他者の呪力によって負荷をかけられれば、その感触は相互に伝わる。先程はそれが全くなく、鏡は割れ消え失せたのだ。彼が呪力を使っていないことの証明になってしまった。こんな芸当、他の誰も出来なかった。いや、やろうとも思わなかっただろう。
お互い警戒している状況が暫く続いたように思うが、ほんの数秒しか経っていないようにも思える。その沈黙を破ったのは彼の方だった。

「…やめましょう。お互い警戒し合っていては埒が開きませんし、手を出してこないということは危害を加えるつもりはないと解釈して、状況をまとめませんか」
『そう、ですね』

利害は一致していた。腰を落ち着けてお互いの素性を明かすことになり、促されるまま椅子に腰掛けた。

「さて…。僕は安室透、私立探偵をやっています」
『私は、天野憂希…倫理委員会の者です』
「…どこから来たのか、伺っても良いですか?」
『はい…神栖66町です』
「神栖…茨城県ですか。しかしそうなると妙ですね。この部屋、一応僕の住まいなんですが、出かけに鍵は掛けていたはずです。どうやって中に入ったんですか?」

どうやら彼、安室は、憂希が何らかの目的でこの部屋に忍び込んだと、そう糾弾しているようだ。それに対する明確な回答は、生憎持ち合わせていない。現に、憂希自身にもどうしてこの部屋にいたのか見当もついていないのだ。

『分かりません…』

こう答える他無かった。

『私にも、何故この場所にいたのかは皆目見当も付きません。私が居たのは茅輪の郷の丘でしたから…突然視界が閉ざされたと思ったら、いつの間にかここにいたんです。それ以上のことは、何一つ』
「…あなたの言い分からすると、まるで超常現象でも起きたみたいですね。到底信じられない話ですが」
『本当です…!』

思わず、言葉を強めてしまった。冷静を取り戻すために、少しだけ目を伏せた。

『…すみません。自分でも信じられないのに、信じてくださいなんて、都合が良すぎますね。声を荒らげてしまってごめんなさい』
「いえ…僕の発言にも問題がありました。確かにすぐには信じ難い話ですが、あなたが嘘をついているようには見えませんし、保留にしておきましょう」
『ありがとう、ございます…。あの、私からも一つ、聞いてもよろしいでしょうか』
「どうぞ」
『…ここは、どの町なんですか』

彼の口振りからするに、ここが神栖66町では無い可能性は高かった。日本であることは間違いないのだが、故郷でないことは確かだ。憂希の記憶にある日本に存在する町は全九つ、その中の神栖66町を除いたどこかだと信じたい。だが、安室は予想打にしない地名を口にした。

「東京ですよ。ここはその中の米花町という地域です」
『東京!?』

あの、どんな生き物も近寄らない呪われた土地。足を踏み入れれば、たちまち死が訪れる、この世の地獄とも言われていた地域に、自分は今いると言うのか。だとするとおかしいではないか。この家を住まいだと語る彼は、その東京に暮らしている事になる。生き物が、ましてや人類が生活することは不可能とされていたのに、なぜ。

「どうか、しました?」
『…嘘よ…東京に、人が住めるわけがない…バケネズミでさえコロニーを作ることを諦めた、呪われた土地に…』
「天野さん…?一体何の話を…」

ある種のパニックを起しかけていた。当たり前だと思っていた認識を覆されされることは正しく、信じていた世界に裏切られる事と同義だ。混乱する脳裏に、無機質な声が語りかける。凛としていながら、女性らしい流水のような声。憂希は、一つの可能性を見出した。

『…あの、安室さん』
「はい」
『ここは、この時代は…キリスト教暦ですか』

肯定が帰ってこなければ、一体何を信じればいいのかと途方に暮れていたことだろう。



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