短編集

□さよなら、世界。
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『この時代は、キリスト教暦ですか』

天野憂希と名乗る彼女は、藁にも縋ると言った表情でそう訪ねた。その聞き慣れない言い回しは、まるで古代文明に存在し今や失われた暦を指しているかのようだ。そのせいか、一瞬理解が遅れた。

「あぁ、西暦ですか。確かにキリスト誕生を紀元としていますし、そうとも言えますね」
『そう…ですか』

イエスに当たる返答に、彼女は詰めていた息をふっと吐き出し、安堵の色を見せた。果たしてこの女性は何者なのか。先程から彼女が語る言葉は奇妙なものが目立つ。まずは自分の出身を神栖66町と呼んでいたこと。神栖市なら確かに茨城に存在するが、66もの町や番地があるかまでは定かではない。第一この答え方も引っかかる。そして、ここが東京だと聞いた時の彼女の反応。か細い声で「人が住めるわけがない」「呪われた土地」と称していたこと。こればかりは何を指してそう認識しているのか見当もつかないが、彼女にとって驚くべき事実だったことは間違いないだろう。だが現代の暦を聞いた際の様子を見ると、もしかすると、という仮説が浮上する。
天野憂希は、現代の人間ではないのではないか。
よく見れば服装も現代的とは言い難い雰囲気だ。降って湧いたこの仮説は、とても現実味のない話だが完全に否定できる要素が薄い。先程告げたように彼女が嘘をついてるとは思えないのは事実だ。演技でなければ、という前述はつくが、正直、そんな演技をして彼女に何のメリットがあるのかと考えれば、可能性はゼロに等しい。

「何か、納得されたようですが…」
『…すみません、一人で完結してしまって…大まかにお話すると、私にとってこの時代は、先史文明期…古代に当たります』

途方もなく、未来の世界を生きてきた、それが答えだった。彼女の話を信じるなら、あの突飛な仮説は証明されたことになる。その事実は意外にもストンと喉元を通り過ぎ、あっさりと消化できた。腑に落ちたのだ。その理由については何も挙げられるものはないのだが、要するに、何となく、そんな気がしていたように思えたのだ。

「未来人、ですか。それはまた、不思議なことも起こるものですね。タイムスリップなんて、映画の中だけの話だと思ってましたよ」
『映画…?それは、どういったものなんでしょう』
「え…?」

現代の科学力を含め、未来はさらに進歩を遂げているものだと思っていた。彼女がこの時代に来たのも、タイムマシンとやらが開発されているからだろうと自分を納得させたところだというのに、彼女の中には、現代に当たり前のように溢れている科学が根付いていないらしい。

『…私、何かおかしな事を言いましたか』
「あ…いえ。僕からしてみれば、あなたの返答は少々予想外だったので…差し支えなければ、あなたのいた時代の成り立ちを聞かせてもらえませんか」

純粋な興味だ。この日本がどういった未来を歩んだら科学が衰退の道を辿るのか。

『…詳しいことは分かりません。私達の社会がどうやって成り立ったのか、それまでの史実の殆どは記録が抹消されていて、一般には秘匿とされていました』
「…なぜ」
『それは、数多の犠牲を伴った恐ろしい戦争の歴史だからです。立場上、知らなければならない人もいますが…基本的には、歴史について触れることは倫理規定に反する事として、追求できないようになっています』
「あなたは、ご存知なんですよね」
『ええ…私の所属する倫理委員会は、町の最高意志決定機関ですから。その中でも、全てを知っているのは極小数ですが…』

彼女は組んだ両手に視線を落としながら、傍観者が残した記録を読み上げるかのような平淡な言葉で語った。

事の発端は、サイコキネシス…PKの存在が科学的に立証されたこと。それを皮切りとするように、世界各地でPKを持つ人間が次々と現れ、最終的には世界人口の約0.3%にまで達した。PK能力者の扱う能力は、当初こそ微弱なものだった。しかし、社会情勢はとある少年が引き起こした凶悪な事件により一変する。そして世界各地でPKによる事件は多発し、旧来の社会体制はいとも容易く崩壊した。それを受けPK能力者の弾圧が開始され、それに対抗するようにより強力な力を持つPK能力者が現れた始めた。世界は未だかつて経験したことのない戦乱の世に変貌。能力者と非能力者間の抗争は際限なく続き世界人口は最盛期の2%以下まで減少し、暗黒時代に突入する。
暗黒時代において、人間社会は四つの集団に文化する。PK能力者を君主とする奴隷王朝、非能力者の狩猟民、PKを持ち家族単位で移動する略奪者、先史文明の生き残りである科学者の四つだが、歴史の記録を続けていたのは言わずもがなこの科学者達だ。略奪者は仲違いにより早期に滅亡、奴隷王朝はおよそ600年以上存続したものの、世代間の抗争により血筋が途絶え、終焉した。後に残された奴隷王朝の民は非能力者の集団であり、狩猟民との間で戦争が起き、膨大な死者を出す。これを収拾するために、それまで歴史の傍観者に徹してきた科学者達が立ち上がり、戦乱期を終わらせ新たな社会体制が生み出された。

『…これが、1000年の歴史の全容です。先史文明以前の紙媒体の記録は戦火の中に焼尽したと思われますが…』
「待ってください。生き残ったのは科学者の集団だけなんですか?PK能力者は根絶したということですか」
『いいえ、彼らは私達の祖先です。中にはPK、私達が呪力と呼んでいるものを持っていたはずです』
「…それだと、同じことが繰り返される危険はなかったんですか」
『確かに、科学者達の課題はそれだったと思います。ですが、これについては資料が現存していません』

詰まるところ、憂希の知る領分からは外れていた。この部分だけが、不明瞭なのだ。ずっと昔にこの部分についても誰かに、いや人ではない物に教えられたような気はしているのだが、思い出せないのだ。これも管理されていた頃の記憶操作によるものなのだろうか。大人の手によって消された妹の事は奇跡的に記憶を呼び戻すことは出来たのだが、社会の創造について最も重要な部分は抜け落ちたままだ。正確には、記憶の桶に蓋をされたようなものだが。

『ただ一つ言える事は、私の町は、平和そのものだったという事です。人類は同種間での抗争はしませんし、何より同胞を呪力で攻撃すれば力を行使した人間が愧死しますから』
「…愧死?」
『はい。愧死機構と呼ばれるもので、人が同族である人間を攻撃していると脳が認識すると、息が苦しくなったり錯乱したり…それでもなお攻撃が続行されると死に至ります。これは動機付けや教育によって、誰もが本能的に理解しています。だから、人が人を傷つける事は有り得ないんです』

初対面では何者かと警戒したものだが、彼女の話が事実なら、天野憂希は人に対して何の対抗手段がないということ。彼女が近くにいたとしてもさほど驚異にはならないという事実が確定した。恐らくこの愧死機構と言うものは、PK能力者がその力で殺戮を起こさないための抑制のために植え付けられたのだろうと察しが付いた。人類の敵は人類とはよく言われているが、その懸念材料を根本から取り払ってしまえば、人は何も恐れることはないだろう。
安室は、随分風変わりな人物と出会してしまったと改めて考えながら、彼女の処遇について検討することにした。

「あなたはこの時代の人ではないですし、戸籍がない以上住まいを借りることも出来ないですよね」
『はい…路頭に迷うことになるのは必然でしょうね』
「そこでなんですが、暫くの間はこの家の一室を提供しましょう。僕としてはあなたの言う呪力というものに興味があるんですよ。残念ながらこの時代ではまだサイコキネシスの立証はされていませんから、外でそんなものをおいそれと使われては、世間は騒然となるでしょうし、厄介なものに目をつけられる可能性だってある。あなたにとっては食と住まいを確保できるわけですし、悪い話ではないと思いますが」

人に対して有効でないとしても、現代社会において人知を超えた力を持つ彼女を世間に放り出す訳には行かないだろう。もしそれがどこかで取り沙汰され、彼女の力を悪用しようとする者が現れた日には目も当てられない。それでなくても、身寄りのない人物を無慈悲に突き放すのは本来の立場から考えても実行すべきではない。ましてや善良な一般市民で通している「安室透」なら、当然取り得る行動だ。

『…お言葉に甘えても、よろしいでしょうか。正直、この時代は私の知る文明とはかけ離れているので、お教え願いたいと思っていたところです』
「では、決まりですね」

この奇妙な縁で、一人の超能力者を匿うことになった。



End


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神栖66町─1000年後の茨城県神栖市辺りの集落。七つの郷から成り、八丁標が街の周囲を囲っている。
茅輪の郷─(ちのわ−)
愧死機構─(きし−)攻撃抑制と共に人間の遺伝子に組み込まれたもの。
呪力─念動力。イメージを具現化し、様々なことに応用できる。生物の品種改良などにも使われる。
(『新世界より』著:貴志祐介─より)
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