短編集

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大通りにしては車の往来は少ない、夜が明けたばかりの通りですれ違った人間が突如として死相を出した。その男は連れの男と何やら話し込んでいるようだが、秒刻みで死相を色濃くする彼からは、やはりどこか覚えのある匂いがした。

『……随分と早いな』

死期を悟ってから実際にその命が消えるまでに、これまで多少なりとも時間があった。助け出すと決めた彼らについてはその間に手立てを考えていたところもあったのだが、今回ばかりはそうも言っていられないようだ。まだ遠くに聞こえる風切り音が、恐らくこの人間に死神を差し向ける黒幕だろう。彼は憂希のポツリと零した呟きに振り返った拍子に、懐から引き抜こうとした黒い手帳を取り落としていた。先程までお互い欠伸交じりに会話をしていた様子からして、徹夜業務明けであることは確かだろう。気を取られたとはいえ手元も覚束なくなる訳だ。路上に滑り落ちた手帳を拾い上げる彼に、それは既にすぐそこまで迫っていた。

「だ、伊達さん!車が…!」

公道ではありえない速度の乗用車が、徐々に歩道に迫りながら疾走してくる。人間の原始的な恐怖心は、どんな者にでも潜在的に備わっていることは妖である憂希も承知している。つまり、彼が逃げるという単純な行動すら取れなくなることは分かり切っていたことだ。

─先程私の声が聞こえたのなら、姿を視、触れることもできる。

人間の思い込みというものは恐ろしいもので、そこに存在していると認識すれば例え本来触れることもなかった存在にさえ質量を見い出す。つまり妖を視る者だけは妖に触れられるのだ。地を蹴って駆け出し、速度を緩める気配のない乗用車に向かっていく。彼を今の立ち位置から少しでもズレさせることができれば死亡は免れると思いたい。憂希の伸ばした手が、縫い留められたように動けなくなった男の体をとらえる。勢い任せにそのまま歩道側に押し退ける中、彼ははっきりと憂希の姿を瞳に映した。靡く鶯色の髪と目隠し、その布の奥から覗いた紫苑色の瞳も。それらを認識した刹那、その視界は止まり方を忘れた車体に掻き消された。



一瞬の後、暴走車両は電柱に車体を当てながら止まったが、そのまま車道に戻って走り去っていった。ここで轢き逃げは確定するところなのだが、運転手を追いかけるのは難しい。真正面からの衝突は避けられたものの、あのスピードで追突された脚の方は無傷ではない。それよりも伊達が気にかけたのは自分の脚の具合ではなく、目の前で車体に飲み込まれた者の姿だった。ほぼ自分の身代わりになったような形で撥ねられていたあの着物姿の女は一体どうしたのか、一部始終を見ていた後輩を振り返る。

「伊達さん!大丈夫ですか!?」
「ああ、一応な…。それより、さっきの女性はどうした?あれだけまともに撥ねられて無事ってわけがねえ」
「え、女性…?」

何も思い当たらないというように疑問符を浮かべる後輩の反応を見て、伊達は自分を疑った。見えていない事よりも、死の瀬戸際を垣間見た自分自身が視たものを疑った方がまだ現実的だ。しかし、あの存在が脳が見せた幻だとしたら、伊達を押し退けたあの手の感触はいったい何だったのか。連れが呼んだ救急車のサイレンが近づくのを聞きながら、あの何者かが確かに触れた右肩を撫でた。

医師の診断としては、左脚の骨折と数カ所の軽傷。暫くギプスと松葉杖の世話になること以外は大した怪我はなかった。かなりの速度を出していたあの轢き逃げの車は、そこに居合わせていた高木がナンバーを調べ、既に所有者を割り出しにかかっているところだ。

「それにしても、正直骨折だけで済んで良かったです。あれだけのスピードでしたし、まともに轢かれてたら…」
「その話はもういいんじゃねえか?そうはならなかったんだから」
「はは、そうですね!」

軽い調子で仕事に戻ると言って病室を出ていった高木を見送った後、それまで彼がいた場所の奥に視線を移す。

「それで……あんた、何もんだ?」
『では聞くが、お前は私が何に思える』
「……信じちゃいないが、さっきから高木の奴には見えなかったようだし、轢かれた痕跡もない。となると、物の怪の類しかねぇわな」
『だろうな。何も否定はしない』

案外理解の早い男だ。確か伊達と呼ばれていたか、と思い返している憂希を余所に、伊達は思う事をそのまま口にした。

「……なんで、助けてくれたんだ」
『彼奴らの匂いがしたからだ。何かと縁があるようだな』
「奴ら…?」
『そのうち分かるだろう。まずはその脚を治す事だな。人間は脆いのだから』
「ははっ、確かにそうだ。妖怪に言われちゃ否定はできねぇな」

信じていなかった割には、妖怪というそれまで架空のものと考えてきた存在については受け入れる事にしたらしい。憂希の言う"奴ら"と括られた者達については引っかかっているようだが、いずれ分かると言うならその時を待つことにしたのだろう。暫く自由に動けない身で気を揉んでも仕方ないと割り切っているようだ。

『その様子なら傷も速くに癒えるだろう。ではな』
「あ、待った。最後に名前だけでも教えてくれねぇか?命の恩人だしな」
『………憂希だ。それと、恩人などと大層な言い方をするな。お前は怪我を負っているのに』
「怪我をするのも治るのも、生きてるからこそだ。あんたがいなけりゃ俺は死んじまってたかも知れねぇ。ならそこに恩を感じるのは当然だろ?」
『確かにあのままなら確実に死んでいたが』
「だから、礼くらい言わせてくれ。ありがとな、憂希」

こうも面と向かってこの言葉を言われるのは何度目になったのか。今回はなんとか死亡扱いにせずとも済んだから良しとするが、人が良いのか馬鹿正直なのか、人間の領分から外れた者にも義理堅いところは、何やら危うさがある。

『礼は受け取っておく。だが一度妖と縁を結んでしまった以上は、人知の及ばぬ災いが降り掛かるかもしれんことくらいは心しておくことだ。人に無害だとは限らんからな』
「あぁ」

忠告のような言葉を最後に、憂希はその病室を立ち去った。人でないことを印象付ける目的はないが、いつものように扉をすり抜けていく。その足で向かったのは当然ながら伊達に零した「奴ら」の元だ。

「なんだ、お前か」
『今日はお前だけなのだな、松田』

今日は非番なのか、他の二人とは違いこの溜まり場に留まっていたのは松田のみだ。天井から入り込む度に未だに肩をびくつかせる景光とは違い憂希の行動には既に慣れてしまったようだが、直接話した回数でいえば圧倒的に少ない。別にそれがどうという事はないのだが。

「今日はどうした」
『お前達の友人だろう、伊達とかいう人間は』
「伊達航なら確かにそうだが、もしかしてあいつに何かあったのか?」
『下手をすれば死んでいた事故にな。安心しろ、私が助けておいた。少々怪我はしていたがな。見舞いに行くなら入院先を伝えるが』

死んでいたかもしれない事故、というフレーズに松田は息を詰まらせたが後に続いた憂希の言葉で安堵した。

「あぁ、頼む」
『米花中央病院だ』
「…そこって」
『お前の命と引き換えに爆破を免れた病院だな』
「引き換えって、俺は生きてるけどな」
『だが「警察官 松田陣平」は死んだのだろう』

憂希のこの発言に、否は返らなかった。あの日のあの現場を見ていた者達にはとても助かる余地など無かったと見えただろうし、それを承知してもう一度生きることを受け入れたのは事実だ。ただ一つの違和感を与えるとすれば、これまでの二人もそうだが遺体の痕跡が全くないことくらいだろう。よもや科学的に立証できない存在が関与しているなどと、思いつくはずも無い。萩原の一件で、松田もそうだったように。

『それで、見舞いはどうするつもりだ。確か面会時間とやらがあるのだろう』
「そうだな。三人で行く暇はないだろうから個別に顔出すか…」
『ここからはお前達の領分だ、私は知らん』
「…お前はそういうやつだったな。でもまぁ、感謝してるぜ。俺達のことも、伊達のこともだ」
『……今日はやたらと礼を言われるな』
「素直に受け取っときゃいいんだよ。それだけのことをしてくれてんだ、それが筋ってもんだろ」

諭すような言い方をしつつ、あっけらかんとしている様子から見るに、遭遇した当初の刺々しい印象は形を潜めているようだ。自分のテリトリーに入れた相手に対しては随分と温情を持つ気質なのだろう。

『…悪くは無いな』

無意識にそう呟いた憂希を、松田は奇妙なものでも見たような顔で見上げた。

「お前って笑えたんだな」
『妖にも感情くらいあるぞ馬鹿者』
「いやだってお前いつも仏頂面じゃねぇか」
『元々そういう顔だ。それを言うならお前も同じだろう』
「……妖怪と同じってのも妙な気分だ」

いよいよ失礼な発言が続いてきた訳だが、こうも真正面から人ならざる者だと対応してくる人間は久しい。他の二人は、特に景光は同じ存在のように話してくる事が時折あった。実際見て話ができてあまつさえ触れることが出来るのだ、憂希が妖であるという事実も抜け落ちてしまうのだろう。そう考えれば松田は根本的な線引きが出来ている方か。人はもう妖を視ないことが当然である以上、その方が良いのだろう。

『……トビヒの言う通り、人に干渉しすぎたか』
「なんか言ったか?」
『何も』

僅かに浮上した「淋しい」という感情については口にするのはやめた。特にこの男には。指を差して笑い転げるだけでなく向こう百日は揶揄ってくるような気がする。

『用はそれだけだ。ではな』
「…あぁ」

最早憂希専用出口のようになっている窓に踵を返せば、その背中に松田は言葉を投げた。

「たまには顔出しに来いよ。あいつら、特に萩原、ここんとこお前が来ないの気にしてるからよ」
『……ならば、土産話を考えておこう』
「ンなモン要らねぇだろ、ダチに会うのに口実も理由も。お前はただその何考えてんのか分かんねー顔して天井から降ってくればいいんだよ」

妖が人の子と関わりを持ったとしても何も残らないと言うのに、彼らは当然のような顔をして憂希を友人という枠組みに入れようとしているらしい。もしくは既に追加済みか。しかしその言葉のせいか、先程浮かんだ一抹の感情は形を潜めた。

『気が向いたらな』

聞き流すような言葉とは裏腹に、心情は酷く穏やかだ。どうやら彼らとは、長い付き合いになりそうだ。最も、人間の尺度で測っての話だが。



End

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