短編集

□ハンドクリーム
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放課後の廊下で、九は筆を洗っていた。

部活はとっくに終わっていたが、キリのいいところまで仕上げたくて一人居残って筆を走らせていたのだ。

秋になり、日が落ちるのも大分早くなってきた。

いつもなら、学校全体がオレンジ色に染まっていたはずのこの時間帯、今はもう外は暗くなり始め、すでに一番星がぼんやりと輝きだしている。

そんな窓の外の風景には目もくれず、急は廊下に設置されている水道で丁寧に筆を洗っていた。

ゆっくりと、丁寧に、時間をかけて、筆についた墨を落としていく。

明日もお世話になる大事な道具だ。

小さな指で、何度も何度も筆の毛先を優しくなでた。


「ホゥ・・・」


ようやく納得できるまで綺麗になったらしく、九は小さく息をついて顔をあげた。

そこで初めて、外が暗いことに気づいた。


「(え、え!?今、何時・・・っ、えっと、時計、あ!部室の鍵閉めなきゃ・・・!!)」


慌てて水道の周りの後片付けをしている時、手にピリッと痛みが走った。

見ると、所々あかぎれやさかむけができていた。

長時間冷たい水に両手を晒していたため、当然ではあるが、見た目にもそれは痛々しかった。


「(最近、水道の水が冷たかったからでしょうか・・・)」


うっすら血が滲んでいる傷もあった。

効果があるとは思えないが、九は口元に手を寄せて息を吐いた。

暖かい息が両手を包むが、それもいっときのこと。

次の瞬間には、また冷たい空気がまとわりつく。


「ねぇ、聞こえてる?」


何度か繰り返した後、すぐ隣で突然声が響いいた。

驚いて振り向くと、すぐ真横に一人の女生徒がたっていた。

近い。ここまで近づくまで気づかなかったとは。


「あ、やっとこっち見た!何回呼んでも反応ないからさー!イヤホンでもつけてんの?」


もーシカトされてんのかと思っちゃったー!とあっけらかんに話す彼女。

どうやら、筆を洗うのに集中しすぎて、声をかけられていることに気づかなかったようだった。

九は申し訳ない気持ちでいっぱいになった。

謝罪の言葉を述べようにも、今はスケッチブックもペンも部室においてきてしまっている。

言葉を伝えられないため、九はごめんなさいの代わりに何度も何度も頭を下げた。


「え!?何!?どしたの!?何でお辞儀してんの!?っていうかお辞儀なの!?なんなの!?」


突然黙って頭を下げだした九を見て、少女は焦ったように言った。

どうやら、謝罪の意は通じていない様子。

九はどうしたらよいものかと考えを巡らせていたが、突然手を握られて思わず体が強ばった。


「っていうかね!そういえばさっきからずっと思ってたんだけどってかこのために呼んでたんだけど、手がめっちゃ痛そうだよ!何これ何したらこんなことになんの見てるだけで痛いよ!」


両手を掴まれてまじまじと見られる。

九は呆気にとられてされるがままだ。


「ダメだよ!こんなに綺麗な手なのに手入れもしないで!ちょっと待ってね!」


少女はポケットを漁ると、小さな化粧品のような器を取り出した。


「これ、あたしの使ってるハンドクリーム!薬用だけど刺激弱めだから、多分合うはずだよ」


そう言って、こちらが何か言う前に彼女はいそいそと九の手にクリームを塗り始めた。

慣れた手つきで手に馴染ませていく様子を、九は物珍しそうに見つめた。


「・・・もしかしてこういうの初めて使う?」


コクコクと小さくうなずくと、少女は少し考えた後ニカッと笑った。


「じゃあ、これあげる」

「!!!(も、もらえません!申し訳ないです!)」


九は、そんなつもりで見ていたのではないと一生懸命頭を横に振るが、少女は有無を言わさず九の手にハンドクリームを握らせた。


「いいのいいの!そんなに高いものじゃないし、折角綺麗な手してるんだからちゃんと手入れしてあげないと!」


ね!と笑顔のまま言われてしまうと、さすがの九も折れるしかなかった。

また小さくうなずき、こんどは深々と礼をした。

先ほどとは違う、「謝罪」ではなく、「感謝」の礼だ。


「どういたしまして!」


どうやら、今度はちゃんと伝わったらしい。

よかった、と九は小さく息を吐いた。


「あたし、1−Aの天草桃香!あなたは?」


名前を聞かれたが、当然のごとく答えることのできない九はただ狼狽えた。


「(どうしましょう・・・描くものがない・・・折角自己紹介してもらったのに・・・っ)」

「・・・」


慌てる九をじっと見つめていた桃香という少女だったが、何か納得したように一つ頷いて、九の頭に手を置いた。


「?」

「まぁ同じ学校の生徒だから、また会えるでしょ!名前はそん時聞かせてね!」


早く帰んないと痴漢が出るよー!と言い残し、桃香は廊下の角を曲がっていった。

九は謝罪もお礼も、自己紹介すら伝えられなかったことをとても後悔したが、手の中のハンドクリームをぎゅっと握り締めながら、頭の中で桃香の名前を繰り返した。


「(天草さん・・・天草、桃香さん・・・)」


忘れないように、今度お礼をしに行く時にちゃんと探せるように、九はしっかりと思い出していた。

少女の名前と、サラサラと流れる小川のようなせせらぎと、包んでくれた両手の温かさを・・・






<補足>桃香ちゃんは“小川のせせらぎ”のような音がするようです。近くにくるまで気づかなかったのは、水道の水の音に桃香ちゃんの音がまぎれてしまっていたためでした。

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