Humoresque【short】
□生クリームと温度計
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「もう一回やっていいですか。」
俺は自分で淹れたコーヒーを飲みほして、足元で倉庫をあさっている女性を見下ろした。
窮屈そうに身体を縮めて、床下の倉庫からコーヒー豆を出しているのは智弘さん、この喫茶店のオーナーだ。
「フリーポア?エッチング?」
「エッチングです。」
「あ、ああああ、ちょっと待って、あそこの…あそこの!グアテマラ・アンティグア!今からローストしないと今日の夜に来るお客のオーダーに間に合わない!」
ああ、名前が男らしいから、こんなに男前になってしまったのだろうか、とたまに思う。
「よいしょっと…」
智弘さんはコーヒー豆の袋を数袋出して立ち上がった。
立ち上がると、俺の背が低いことが際立つ。
長い髪を掻きあげて、ふぅ、と溜息を吐いた。
だるそうな表情。
いつもより動きにキレが無いのは暑いからだろうか。
因みに、ともひろ、と呼ばれると怒るらしいから、ちゃんと、ちひろ、と呼ばなければならない。
「そういえば、あんたも懲りないねぇ、今日何杯目?」
可愛らしく小首を傾げて、智弘さんはローストマシンにグアテマラ・アンティグアという銘柄のコーヒー豆を入れ始めた。
「まだ十杯もやってませんよ。」
俺はコーヒーカップを洗って、くすりと笑った。まったく、いつも思うが智弘さんは快濶な人だ。
「まだって…ったく、十杯やったら終わり。豆が勿体無いし。今月分の豆代、給料から差し引くからね。」
彼女はそう言ってローストマシンのスイッチを入れて、カウンター席に座った。
いつの間にかその手には牛乳やコーヒーの温度を測る温度計の針が。
「はは、豆代くらいなら引いてくれて良いですよ。」
「よーし、がっつり引いとくね。」
「どうぞ、どうぞ。」
がっつり給料から豆代が引かれて手取りが無くなるのは困るが、実際に智弘さんはそんなことはしない。とても優しい人だ。
ふと南の壁に掛けられた時計を見ると、もう彼女の休憩時間に入っていた。
もう一回エッチングの練習をして、夜の店の準備…クロックムッシュとマフィン、それから、
そう、今日の夜に来る常連さんの為に特別オーダーのパニーニを焼かなければ。
そんなことを考えながら、エスプレッソを抽出する準備を始める。
智弘さんは温度計の針をクルクルと回しながら溜息を吐いた。
「でもさ、3ヶ月しか働いてないのにコーヒー豆の焙煎も上手くて、個人の注文にあったコーヒーも作れて、エスプレッソの抽出も出来て、素人には難しいフリーポアまで出来るんだから、エッチングはゆっくりやればいいじゃない。」
彼女は少し不思議そうな顔をして俺を見ている。
日本人らしくない色素の薄い瞳がまっすぐこちらを見ている。
「早く智弘さんみたいに綺麗なエッチングがしたいんですよ。」
俺は気まずくなって手元に意識を集中させた。
早く、早く自分の店を出して、今までお世話になってきた人に自分のコーヒーを飲んでもらいたい。
俺はそう心の中で思いながら智弘さんの好きなアイスモカラテを淹れる準備をする。
彼女は苦いモカが好きで、モカシロップも少し入れないと…
エスプレッソを抽出して、ダブルショット。
氷をシェイクして小さな粒にしたのが真咲さんの好きなアイスコーヒー。
独特だけれど。
「アイスだけど、エッチングしていいですか?」
俺は両肘をついて此方を見ている智弘さんを窺った。
とても眠たそうな顔をしている。
「あたしがするー。」
智弘さんは眠たそうな顔のまま、持っていた温度計針を水で冷やし始めた。
それからカウンタークロスで水分を拭き取ると、俺が作ったアイスコーヒーを受け取る。
「エッチングはね、そんなに急に出来るもんじゃないし、あたしだって、何年も修行してやっと出来るようになったんだから、焦らなくて良いと思うよ。」
カウンターの向こう側で智弘さんの手の中にある温度計針がゆっくりと動いた。