Nobel

□one room2.
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夢を見た。そこは果てしなく広い宇宙の中をさ迷う宇宙船の中で、俺は死体の海の中に立っていた。何が何だかわからないのに、酷く孤独感を感じた。こんなに広い宇宙の中にただ一人、俺だけが生きていて、俺だけが存在している。今まで感じたどんな恐怖や孤独や嫌悪や後悔や、そして愛しさよりも、それは酷く残酷なものであった。俺の目線の先には、阿伏兎。変なの、マントなんか着ちゃって。血だらけだよ、阿伏兎。ゆっくりと抱き上げ、頬を撫でる。あまりにも、リアルすぎやしないか。ガラス張りの窓の外を見ると、どこへ進んでいるかもわからない宇宙船がゆらゆらとあたりに広がる星々の間を通り抜ける。起きて、阿伏兎。俺、こんなところに一人でいられないよ。寂しいよ。ねぇ、起きて。お願い。俺を、



「…一人に、しないで…」

目を開けると、見慣れない天井が目に入った。一瞬ここがどこか判断できなかったが、昨日の経緯を思いだしむくりと起き上がる。そうだ、俺は昨日、阿伏兎という男の家に泊まったのだった。ぼーっとする頭をかきながらこの部屋の持ち主を探す。どうやらもう仕事に行ってしまったようで、机の上には朝コンビニで買ってきたらしいサンドイッチと、一枚の置き手紙が置いてあった。別にそんな気を回してくれなくてもよかったのに。苦笑を浮かべて手紙を開けてみると、綺麗とも汚いとも言えない字でこう書いてあった。“俺はもう仕事に行くので、出ていくなら勝手に出ていってください。鍵はポストの中なので、出ていくときは鍵を閉めていってください。”最後の行には何かあったときの連絡用に携帯番号が書いてある。
「なんで敬語なの」
ぎこちない文章に、思わず吹き出す。昨日も思ったが、阿伏兎はきっと不器用な人間なのだ。その割りに酷くお人好しで、困っている人を放っておけない。まぁ、そんな優しい阿伏兎に甘えたのは俺なのだが。腹も減ったし、好意で買ってきてくれたであろうサンドイッチをぱくりと口に含む。これを食べて顔を洗ったら、すぐにこの部屋を出よう。そして、また“いつもの場所”に戻ろう。そう思うと、自然と溜め息が漏れた。そういえば、朝、何か夢を見ていた気がする。決して嬉しいような楽しいような夢ではなかったような気がするが。思い出せないと見切りをつけ、無駄に脳を回転させることをやめた。




キッチンの水道で顔を洗い、無造作に重ねてあるタオルで適当に顔を吹いた。ん、いい匂い。阿伏兎の部屋の匂いだ。タオルに埋めた顔を上げ、改めて阿伏兎の部屋を見回す。本当に、無機質な部屋だな。質素と言えば聞こえはいいが、必要最低限の物すらない。阿伏兎はこんな部屋に毎日帰ってきて、寂しくはないんだろうか。俺はこの部屋、嫌いじゃないけど。始めてこの部屋に来たときから、この部屋と阿伏兎はどことなく似ている気がしたのだ。何もないから、なんでも受け入れてしまう。拒むことを知らない。無機質で、質素で、淡泊で、薄情。全部受け入れてくれるからこそ、知らないうちに色んな物を背負い込んで、最後には壊れて消えてしまいそうな危うさを持っている。ただの、想像論だが。机の上にあった置き手紙をくしゃ、とジーンズのポケットに入れ、俺は玄関を出た。今度、日を改めてお礼をしよう。いきなり泊めろと言い出した見ず知らずの奴を家に入れてくれたあの男に。そして、この無機質な部屋に。お邪魔しました、と一言声をかけて
から鍵を回す。たくさん、迷惑かけちゃったな。唐揚げ弁当のこと、尻餅をつかせてしまったこと、泊めて貰ったこと、ベッドを占領してしまったこと、朝食を買ってきて貰ったこと、安心する空間に俺を招いてくれたこと。全部、ありがとう。



―――――――――――――――



会社から帰宅すると、その部屋にはもう神威の姿はなかった。サンドイッチと手紙の姿がないということは、出ていってしまったのだろう。変な訪問者だったなと思いながら、身寄りもないらしいあの男のことが気にかかった。家も職もない。なのに小綺麗なガキ。弁当が二つ入った袋を床に下ろし、溜め息をつく。もう何年も住んでいるいつも通りのこの部屋が、今までよりも少しだけ寂しいものに思えた。神威の寝顔を思い出すと胸の中がぐるぐるとしてムカムカとした。頭の悪い表現しか思い付かない脳と複雑な感情に苛立ちを覚えつつ、弁当の蓋を開ける。迷惑な奴が居なくなって清々した筈なのに。でも、何かあったらきっと連絡してくるだろう。恐らく神威は俺の携帯番号の書いてあるメモを持っているはずだ。
「…はぁ」
カーテンも何もない窓に辛気くさい自分の顔が写る。
「なんだってんだよ、くそ」



―――――――――――――――



俺は昨日阿伏兎と出会ったネオン街に戻ってきた。卑猥なネオンが眩しいこの地は、俺の唯一の“居場所”であり“住み処”だ。家がなくても毎晩こうして歩いているだけで声をかけられる。それが女だったり男だったりサラリーマンだったり初老だったり高校生だったり所属は様々だが、用件は皆同じだ。その日泊まる場所を提供してくれる代わりに、俺は体を売る。所謂、俺の職業は売春だ。家がなくてもこうして日々生き抜くことができるし、お金がなくてもご飯や衣類は向こうが提供してくれる。なんて素敵な関係だろう。本当は昨日のあの男も、ホテルに連れ込もうとしたのだ。だいたいの女も男も、俺の姿を見るなり指を立てる。三万で、どう?金額は一から十までその日によって違うが、俺は現金は受け取らない主義だ。ホテル代と食事だけ奢ってくれれば、それでいいよ。にこ、と笑いかければ、それでチェックメイト。俺の勝ちだ。でも同じ人と二、三回やることがあった。そうすると絶対にこう持ちかけられる。家に来ないかと。その度断る俺に相手は必死で説得を試みようとする。でも、俺の居場所は此処でしかないんだ。此処から出ることはできないし、出ることもない。俺は、夜にしか生きられないんだ。なのに、阿伏兎だけは今までのどんな人とも少し違った。金と情欲にまみれた人間がありふれているこの地で、阿伏兎だけはそんな色がひとつたりともない。何処か俺と似ているな。そんな感情さえも感じだ。その瞬間、あの男に興味が沸いた。今まで感じたことのない欲求に、立ち入らないと決めた他人の“住み処”に入ってみたいと思った。この男がどんな場所で生活しているのか、この男がどんな人か。一か八か、泊めてくれと頼んだ。無理なら無理で、諦めよう。しかしあろうことかその男は、あっさりとそれを承諾した。変な男だと思った。


始めて入る他人の住み処は、妙な感じがした。物がないから、いつも寝泊まりしているホテルと何ら変わりのないように思える。ここが、阿伏兎の部屋。この男が生活している部屋。生活している、といっても、とても生活感を感じられる空間ではない。阿伏兎も、他人を部屋に入れるのが初めてのようだった。俺も、初めて。少し嬉しくて、そして、安心した。なんだか心地がいい。不器用な話し方も渋い声も、全部。今まで俺に触れてきたどんな人間とも異なって、変な人。ポケットに入っていた電話番号のメモを取り出す。もし、もう一度あの部屋に泊めてくれと頼んだら、阿伏兎は俺を受け入れてくれるだろうか。拒否せず、昨日みたいにあの部屋に、無機質な部屋に招き入れてくれるだろうか。

いや、やめておけ。空を見上げると、星ひとつない濃紺の空が俺にそう語りかけた気がした。そうだよな、やめておこう。あの部屋は俺には勿体ない。夜を知りすぎた俺には、眩しすぎるんだ。立ち上がり、路地から抜け出す。今日の寝床を探さなくちゃ。そして、ご飯も。今夜はなんだかめちゃくちゃにされたい気分だった。そして、色んな物を忘れ去りたい気分だ。俺は、煌々と星や朝日とも違う光を放つ町へ飛び込んだ。

「…神威?」



――――――――――――――――



はっとした。一度この場所を過ぎ家に帰った筈なのに、なぜ再びこの場所にいるのか。でも驚いたのは、俺だけじゃないらしい。
「阿伏兎…?なんでここに…」
神威の隣には見知らぬ中年のジジイがいて、顔が紅潮しているところを見る限り恐らく酔っ払いだ。厭らしく神威の腰に手を巻き付け上下に撫でている。
「おいテメェ、邪魔するんじゃねぇぞ。コイツァ今日俺が買ったんだ。そこを退け」
「…神威は売り物なんかじゃねぇ」
あ?聞こえなかったのか聞き返してくる中年の手から神威を引きそのまま走り出した。あーあ、俺、この年でなにやってんだろ。しかも相手は女でもなんでもねぇ、ただのガキの男だぜ?正気か、俺。
「ねぇ阿伏兎っ、これっ、どういうこと!?」
「そんなん俺も知らねェよ!」
神威は心底楽しそうに俺に手を引かれている。神威の本当に笑った顔を、始めて見た気がした。そんな顔を見ていたら、なんだか馬鹿らしくなって俺も苦笑が込み上げる。そのままネオン街を突っ切った。その場所を抜けたとき、神威がぎゅっと俺の手を握り返してきたのを感じた。最初からおかしいなとは感じていたんだ。あんな場所に一人でいて、人様の弁当をかっ食らって、家も家族もお金もないのに小綺麗で、どこか手慣れていて。もう、お前はこんなところにいなくていいんだ。夜に怯えて光を避けることはない。俺達は平等に光を与えられる権利がある。だから、なぁ神威、

「俺の部屋で、一緒に暮らさないか」

この不安定で子供のくせに背伸びをしている神威を、守ってやりたいと思った。



続きます。

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