Nobel

□ありふれた僕等の話。
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本当は、もっとずっと前にわかっていたのかもしれない。

「阿伏兎、好き」
つー、と傾いたコーヒーカップから中身が重力にしたがって落ちる。床までの間を静かに遊泳したあと、それは音を立てて打ち付けるように床を汚した。
「…今度は何企んでやがるんだァ?」
はっ、と落ちたコーヒーに気づいたような素振りをして開口一番に阿伏兎は言った。酷いな、何企んでる、だなんて。コップを平行に持ち直すと阿伏兎はどこからかティッシュを持ってきて床に跪いた。拭いているのだ。
「酷いよ阿伏兎、思ったことを正直に言っただけじゃないか」
「あーあーそうですかィ、そりゃ光栄なこったすっとこどっこい」
「真面目に聞いてよ」
びしゃっ、コーヒーで濡れそぼったティッシュを阿伏兎の顔面に投げつける。怒っているのか呆れているのか、そんな表情で顔に張り付いたティッシュを人差し指と親指でつまむ。
「団長ォ…俺ァ仕事が残ってんだよ。邪魔しに来たのなら帰ってくれ」


シッシッ、と半ば追い払うような仕草を取る。なんだよ、それ。まるで聞く耳を持たない阿伏兎と目線を合わせるようにその場にしゃがむ。
「俺、本気だよ」
「だったらなんなんだ、お前は俺に何を求める」
真面目な返答だった。何を、求める?何も考えていなかった俺はそのまま黙ってしまう。
阿伏兎は溜息をついたあとしゃがんだまま動かない俺の脇に手を入れ、無理やり立たせた。頭冷やして来い。そういうと部屋の外に追い出され、普段は俺が出入りするからとかけない鍵が、ガシャン、と音をたててかけられた。


(こんな些細な障害、俺には無意味なこと本当はわかってるくせに)
行く宛もなく進んでいるのか戻っているのかもわからない、この星々の間をゆっくり進んでいる船艦の中をさまよう。

“お前は俺に何を求める。”

阿伏兎、俺はお前に何を求めていたんだろう。そもそも好きだなんて、どうして言おうと思ったんだっけ?きっと、好きだから好きと言ったんだ。答えはどこを探してもそれしかなくて、一人うずくまって阿伏兎のことを思い出してみる。


考えれば考えるほど、知れば知るほど、阿伏兎のことが愛しくなった。いつもわがまましか言わない俺が、たまに素直にいうことを聞く。そうすると阿伏兎はいつも頭をなでてくれた。やればできるじゃねーか、ともいい子だ、とも言ってはくれなかったけど、それは俺が望む言葉じゃないと、きっとわかっていたんだ。ただただ苦笑を浮かべながら黙ってなでてくれた。俺にはそれがとてつもなく幸せに感じて、言葉にはとてもし難いけれど愛しい、と思った。


阿伏兎が他の星に仕事に行ってなかなか会えなかった時も、本当は離れたくはなかったけれど生憎オフィスに興味の無い俺は黙ってそこに残ることにした。じゃーね、いってらっしゃい。にこ、と笑いかけるとなんとも言えない顔をして抱きしめてくれた。なにそれ。ふっ、と笑うと、行ってくるとだけ呟いて阿伏兎は俺に背を向けた。


好きだよ、好き。大好き。愛してる。阿伏兎のことは知らないけれど、俺はお前が大好きなんだよ。俺のわがままを聞いてくれればそれでいい。たまに素直に従うから、おとなしくしているから、その時はまたあの苦笑で頭を撫でてほしい。また少しの間お前に会えなくて、そんなときはもう一度抱きしめてほしい。
阿伏兎、俺はお前と出会う前こんな感情をしらなかったよ。怒ったって笑ったって、結局は俺のところに戻ってきてくれた。それがいつまで続くなんてわからないけれど、手を握れば握り返してくれる。触れればそっと抱きしめてくれる。それだけでいい。それだけでいいから。


目の前を阿伏兎が通り過ぎる。気付きているのかいないのか、否…気付かないふりをして俺の前を通り過ぎようとする阿伏兎を呼び止める。


「阿伏兎」
ぴたっ、わかっていたかのようにそこで止まる。振り返りはしない。

「やっぱり俺、阿伏兎のことが好きだ」
くる、と振り返って、阿伏兎はニヤリと笑った。

「で、その団長様は俺に何を求めるんですか」

ふはっ、空気の抜ける様な笑いがこみ上げる。俺にも、阿伏兎の苦笑がうつったみたいだ。


「阿伏兎は、そこにいてくれるだけでいいや」


遠まわりしても、素直になれなくても、どんな時間も嬉しい。阿伏兎が好きで、俺は今日も嬉しい。

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