Nobel

□ぼくは、ナチュラルキラー。
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【笑う】という行為が医学的にも科学的にも心理的にもプラスの効果につながると解明されたのはいつのことだっただろうか。


神威はよく笑う。いや、いつも笑っている。血色の悪い肌に、薄い唇に、大きな瞳に、気味の悪い笑顔を貼り付けて、奴はそれが当然のことのように笑顔で人を殺す。いつか聞かされたことがあった。笑顔は、俺の殺しの作法だ、と。例えばそれが、神威の体に有益な力を生み出す“母体”になっていたとしたら?神威の手によって死んでいく生き物たちから力を奪うように、神威にとって生き物の死が、生きているということだとしたら?


神威には栄養が足りていないと気づいているのは、春雨の中でも俺と、高杉くらいだと思う。あんなに食べて、暴れて、ぱっと見では何が不健康なのか何処が栄養不足なのかはわからない。青白い肌も以前より格段に落ちた筋肉も、長い間の船旅と日を嫌う夜兎の血を考えたらなんの違和感もない。ただ、少し前から神威は食べたものをすべて吐き出すようになった。げぇげぇと嗚咽を漏らしながら、便器に顔を突っ込むようにして。その嗚咽が神威のものだとすぐ気づいた俺はその場から動くことができず、青白い顔で洋式便所から出てきた神威は、俺のことを見るなりいつもの綺麗な顔をぐしゃっと崩して、こう言った。
「調子に乗るなよ」


神威の体は強い。滅多に病気を患うこともなく至って健康な体を持っている。それはよく食べ好きなことを好きなだけ我慢せずにする、そういった幸せな環境で育った故だけではないと、殺しの作法を聞かされた時に、付け加えるようにして神威は言った。
「笑いっていうのは体にもとてもいい影響をもたらすんだよ。辛いときに少し口角をあげるだけでも安らぐ時があるだろう?それだけじゃなくて、例えばガンとか、そういう病から身を守ってくれるおまじないみたいな物なんだよ」
実際に検証もされてるしね、みつあみの先をくるくると弄びながら得意げに言う神威はどこか楽しそうで、そしてどこか諦めているようにも見えた。くるりと振り返り、俺の唇の端を上に持ち上げてまるでトラウマを話すかのような重い雰囲気で目の前の男はこう言った。
それを、それをね?
「ナチュラルキラー細胞っていうんだ」


酷だ、と、思わず口から漏れそうになる同情にも似た言葉をあわてて飲み込む。神威は笑顔で人を殺し、夜兎を殺し、天人を殺し、死んでいった奴等をお守りのように顔に貼り付け、また、殺し、そして自身の体を気休め程度に守っている。そのナチュラルキラー細胞がどこまで役に立つのかは知らない。それでも、そんなのは酷だ。


「阿伏兎、さっきから何考えてるんだよ」
書類を片付けながらそのナチュラルキラー細胞ってヤツのことを考えていたら、いつの間にか俺のとなりにはデスクに頬杖をつくような体制でにこにこしている神威の姿があった。……ああ、また、痩せたな。必要以上に浮き出た手の骨を隠すように、神威は袖の長い服を着るようになった。

「…また吐いたのか」
「あはははっ、やめてよ。人が好きで吐いてるみたいな言い方」
ケラケラと笑う神威の顔にはやはり諦めのようなものが見え隠れしていて、そんなときのコイツの誤魔化し方を、俺は知っている。
「阿伏兎もさ、そんな湿気たツラばっかしてないで、たまには笑っ……」
「“調子に乗るなよ”」
言いかけた言葉を遮るようにして、あの時言われた言葉を繰り返す。
「お前は、知られたくないことがあるときは人の口の端をあげようとする癖があるんだよ」


神威はとても大事な秘密が世界中に広まってしまったかの様な顔をして、笑うのをやめた。そして、鬼のような形相をしながら俺にのしかかり、何度も何度も殴った。その暴力はいつもの残虐なものとは違って、子供が割ってしまった花瓶の言い訳を必死で考えているような、秘密の居場所がどこにもなくなってしまったような、力無いものだった。
「……がう、違う!俺は、……違う!!」
そういい終わるとまるで五歳児が泣き喚くような嗚咽を洩らし、神威はぼろぼろと涙をこぼした。次々にあふれるその涙は頬を伝い落ち、服の布地をより濃い色に染め、そして俺の頬に、目に、鼻に、留まることなく落ちてきた。
「違う…ひっく、うえっ、ただ、俺は、……うっ」
神威が隠してきたものをひとつひとつ受け取るように、俺は黙って神威から送られてくる涙のつぶと暴力を受け止めていた。


ナチュラルキラー細胞というのは、笑うことによりより活発になるものらしかった。そして、作り笑いでも効果は同じだと知ったのはそれから暫くたってからのことだった。心理学的に、面白いことがなくても口角を上げるという行為が気分を上げる有意なモノになり、体内組織を活発にする元にもなるのだという。


神威は、一体どんな気持ちで今まで笑っていたのだろうか。実際あんなことがあった後でも、神威は変わらずあの諦めたような笑顔を絶やすことはなかった。これが、俺のお守り。そう言った神威の吐き癖は治るどころか悪化する一方で、きっともう、このままだったら先は長くないのだと思う。


愛、虚無、期待、不安、罪悪感、娯楽。この全てに押しつぶされてしまった神威は、誰に相談することもできずに、形無い護身を身に付けることで自分を守ってきた。勿論そんな不確かなものが本当に体内細胞を活発にさせていたのかなんて俺達には分かる訳もなく、きっとそんなものも後付けでしかないと俺が気づいていることは神威もわかっているだろう。


神威は、ただ、本当に笑いたかっただけなんだ。なんでこんなこと、してるんだろう。そんな顔をしながら生き物を殺し、本当の自分を殺し、耐えきれなかったボロは吐き癖と共に浮き出た骨と青白い肌に反映され、今にも倒れそうな体を支えるので精一杯になるまで戦った。生き物と戦うことを生きる意味としてきた神威が大人になってしまうことにより、無意味にして、虚無地点に還った。それだけなんだ。ただ、それだけ。


じゃあ俺の中で神威の存在が“生きがいだ”という理論を、どう説明しよう。神威がナチュラルキラー細胞にこじつけ笑顔を作ることにより精神を保っていたという様に、俺は神威という生物自身が大切なお守りなのだ。神威がいなければ笑顔にもなれない。楽しくない。


「……酷だ」
神威自身がナチュラルキラーだなんて思ってしまった自分も、あの諦めたような笑顔を思い出して涙を流す自分も、痩せ細ってしまった神威も。みんな、ナチュラルキラー細胞に犯されてしまった被害者だったのだ。




“僕は、ナチュラルキラー”

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