長編

□ラッキースケベ緑間
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 きゃああ、と女子の悲鳴が聞こえたのは四時限目の半ばだった。「きゃ」の一瞬後に、低いどよめき。どよめきの数瞬後に、ざわめき。悲鳴とどよめきは隣のクラス、ざわめきは緑間のクラスで波紋を広げた。
 こちらのクラスでペリーについて語っていた社会科教師(42歳男・妻子有り)は、授業を中止して様子を見に行った。ペリー談義に寝落ちしていた生徒は目を覚まして何事かと周りに聞き、周りは簡単に説明をする。青峰は爆睡していた。野次馬根性ある生徒は教室を出ていった。
 緑間はテスト範囲の暗記を始めた。今度こそは赤司に勝つ――


 そして、打倒したい、と今名前を思い浮かべた相手の名前が聞こえた。


 彼が悲鳴の理由だとは思えなくて、何が起こったのか知りたくて、教室を出る。
 隣の隣のクラスの生徒も何人か廊下に出ていた。緑間に気付いたクラスメイトが道を譲る。
 どうしたのだと聞く前に、教壇の手前に出来た人垣の、足の隙間に赤色を見つけ言葉を失う。


「赤司……!?」


 保健室だ、と隣のクラスの教師が言った。緑間は気付けば、人垣と、赤司の肩に手をかける教師を押しのけていた。意識があるのか定かでない体を起こし、脇の下に腕を入れて立ち上がる。横抱きかおぶった方が楽だが、赤司の性格を考慮して止めておいた。

「オレが連れていきます」

 一方的に告げて教室を出る。皆痛い程の視線を投げてきたが、二人が主将と副主将の関係だからだろうか。制止はなかった。
 熱い、同じ男とは思えない小さく細い体は、ぐにゃりと力が抜けていて、汗ばんでいて、柔らかかった。



* * *



 赤司の両親は共働きである。父親はとある有名会社の社長で、母親はその秘書だという。
 そんな多忙な彼らとは当然連絡がつかず、緑間は乗りかかった船、と赤司を連れて赤司邸へ向かっていた。


「……戻れ、緑間。学校はまだ終わっていない」

「オマエが終わっているから無理なのだよ」

「あぁ? どこら辺が終わってるんだ」

「声と顔色と体温と体力が」

「…………」


 返事が来なくなった。寝たのだろうか。リアカーの荷台を確認してみると、赤司はそこで横になって目を瞑っていた。眠っているようだ。


「…一つ訊く。このリアカーは何だ?」


 起きていた。


「言わずもがな、今日のラッキーアイテムなのだよ。やはりおは朝は素晴らしい。これがなければオマエは歩くかオレにおぶられて帰らねばならなかったのだからな」

「こんな人目につく物に乗るよりは、歩くかおぶられて帰った方がマシだな…」

「おぶっていいのか?」

「…だめ」


 ぜほっ、と苦しそうな咳が一つ。喋らせない方がいいことに気付いた。声だってひび割れてるのだ。
 緑間は無言でリアカーを押した。赤司が今度こそ眠ったようなので、ブレザーをかけておく。

 二十分ほどして、赤司邸に辿り着いた。
 赤司邸はいつ見ても広かった。その日本家屋は、ご近所が卑屈になってしまいそうなくらい、一軒家が集合した住宅街から浮いていた。
 呼び鈴を鳴らしても誰も出てこない。分かっていたことだ。誰かいたら、保健室で家に電話をしたとき、応答があったはずなのだから。


「…みどりま」


 聞いている方が辛くなるような掠れ声で呼ばれた。振り返ると、目を覚ました赤司が銀色の物体――家の鍵を持った手をこちらに伸ばしていた。受け取って鍵を開ける。
 リアカーから赤司を降ろし、教室から保健室に行った時のように肩を支える。赤司の足の向きを見ていれば、彼が言わずともどこの角を曲がればいいのかは察せた。


 下手すると教室より広い部屋が、赤司の自室だった。ベットと机とクローゼットと本棚。本と教科書。絨毯。カーテン。それしかない、いやに殺風景な部屋。男らしい部屋ではなく、もちろん女らしい部屋でもない。
 赤司の体をベッドまで連れていき、さてどうしようかと頭を悩ませる。
 家人がいない家に赤司一人を置いておくのは気が引けた。看病しても構わないだろうか。学校には、部活が始まるまでに戻ればいい。赤司がいないだけでも好き勝手するキセキが、緑間までいないとあらば、どんちゃん騒ぎを起こしそうだ。


「…着替えた方がいいのだよ」


 手始めに着替えを促す。汗に湿った服は気持ち悪いだろうし、制服ではベッドに寝転びにくい。
 赤司はこくりと頷き、ベッドの隅に畳んで置いてある寝間着を引き寄せ、クローゼットの一番下の引き出しから包帯を取り出した。ブレザーを脱ぎ、ネクタイをほどき、ボタンを外し出す。
 後ろを向いていた方がいいのだろうか。いやしかし赤司は男である。男が男の着替えを見ても何の問題もない。だがしかし赤司は自分の想い人で。少なからずヨコシマな気持ちはあるから、やはり後ろを向いていた方が――

 緑間が凝視しつつ悶々とする中、赤司は制服のシャツを脱ぎ終えた。裸の胸に包帯が巻かれていて、緑間の悶々は、少し不思議に変わった。
 包帯の右胸辺りがぐい、と引っ張られ、白が胸の締め付けを解く。



 締め付けの中から現れたのは、


 肌色をした小さな膨らみで。


 女性が持つ、柔らかいもの、だった。



「…………………………え、」


 赤司が包帯を胸に巻き終えた時、やっと声が出た。反応した赤司が緑間を見上げ、たっぷり十秒は見つめる。そして、熱で赤かった顔は更に赤くなり。


「――出て、けっ!!」


 高い声と枕が飛んできて顔面にぶつかった。


 ――どう学校に戻ったかは覚えていない。
 ただ、気付いたら放課後の、部活中の体育館にいた。



* * *



「緑間は昼休み、オレのところに来い」

 来たか、というのが、赤司の言葉を聞いて思った一言だ。昨夜は、明日何を言われるか気になって気になって眠れなかった。朝練も普段より動きが悪かった覚えがある。

 昼休みが来るその時までが、長いようで短い。さっさとどうなるのか知りたくて時間を長く感じ、どうなるか怖くて短く感じた。
 昼休みが始まってすぐ赤司のクラスに向かう。教室に一歩踏み込むと、白地に赤いチェックの小包を手に、赤司がやって来た。「昼食は?」聞かれて首を振ると、「とって来い」――食べながら話すのだろうか。
 弁当を取ってくると、赤司は無言で歩き出した。どこへ行くのだろう。教師に呼び出された時より緊張した。

 連れていかれたのは部室だった。昼休みに誰かが来ることはまずない部屋だ。緑間を先に入れた赤司は、自分も入ってから鍵を閉めた。
 赤司はいつも将棋を指している場所に座り、包みをほどいて弁当を食べ出す。緑間は所在なく突っ立っていたが、真っ赤な目に促され、赤司の向かいで弁当を広げた。おしるこがあまり美味しく感じられない。


「――見たよな?」


 語尾を上げておきながら、疑問の形をしておきながら、赤司の声には確信しかこもっていなかった。完璧な疑問の音で問われても否定するつもりはなかった緑間は、一つ頷いた。
「そう」――赤司は箸の動きを鈍くして目を伏せた。きっと考えているのだろう。伏せられた睫毛の赤を眺めながら気長に待つ。

 やがて。緑間の弁当箱が具一つ残さず空になった頃。半分以上残っている具を口に運びながら、赤司は顔を上げた。


「――昨日見た通り。僕は女だ」


 いつもより高い声――地声なのだろう――と、変わった一人称。「僕」が女性としての赤司なのだろう。

 長い長い、赤司家の話が始まる。家の事情が、跡取り娘のただの部活仲間に晒される。身内間の醜い争いが暴露される。
 話が終わった時、彼女の弁当箱もまた、空になっていた。


「……辛くないのか?」


 そう訊いていいのか分からなかったが、訊いた。赤司の物の考え方は一般とも大衆とも違っていて、彼女にはどう接するのが正解なのか、彼女にしか分からないのだ。だから訊きたいことを訊いて、答えに耳を澄ませる。


「鳥籠で生まれ育った鳥は、自らを不幸と思わないだろう」


 その言葉は本で何度か目にしたから、分かる。その比喩を理解できる。
 生まれた時から男装している赤司にとって、男装は当たり前の日常なのだ。辛さを知らないから辛くはない、と。


「問題なのは、僕が辛いか辛くないかじゃない」


 白磁の指が携える箸が緑間を指す。無作法だと咎める言葉は喉に張りついて胃に逆流した。
 赤司の赤眼は、敵を見据えるように炯々と鈍く光っている。こんな目で見られたらそれは堪らないだろう――今までの試合相手に同情する。


「僕の性別を知っているのは、僕自身を除いては数人しかいない」

「…その数人が昨日、一人増えたというわけか」

「そう。そしてこれ以上、秘密を知る人間を増やすわけにはいかない」


 殺されるんじゃ、と本気で思った。赤司から放たれていたのは研ぎ澄まされた殺気ではなく鋭い凄みだったが、命の危機を感じた。赤司――赤司家に常識は通用しない。冷や汗がこめかみを冷たく濡らす。
 壁時計の音も耳に入れさせない緊張が続いて。赤司が目と口元を緩め、それは霧散した。カチコチという秒針の音が戻ってくる。


「構えるなよ。オマエの口の固さは僕もよく知っている」

「あんな目で見られたら構えたくもなるのだよ…」

「そうかい? ……じゃあ、“あんな目”に見合うような脅しをかけよう」

「いらん」

「誰かに言ったら、僕と結婚だ」


 これ程有効な脅しはあるまい、と赤司は悪童のように笑う。有効どころか逆効果だ――緑間は苦笑いを抑えるしかなかった。


「逆にしてほしいものだな」

「誰にも言わなかったら結婚? いいよ、それでも」

「…………………………え、」


 思わず赤司を凝視する。悪童の笑みは秒刻みで後悔の色に変わる。赤司は発言して五秒は硬直し、


「……っ出てけ!!」


 顔を腕で隠して、弁当箱を投げつけてきた。



END.







* * *
男の子の弁当箱包むものってどんなのなんでしょう…。悪童はもちろん、某マロ眉さんではなく悪戯っ子の意味です。
最後のトントン拍子があっさり過ぎた。

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