長編

□ただの愛
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 ナチス党のヨーゼフ・ゲッベルスはこう言った。



 嘘も百万回言えば真実になる。



 回数は百だったり千だったりするけれど、要するに、つまり、嘘をたくさん吐けば本当になるのだという。
 だから百万回、心の中で言ってみた。


 キセキの世代が大嫌い。


 本当に、嘘が本当になるのか信じていたかは疑わしい。
 しかし結果として。思い込みが、刷り込みが強固になり。僕はキセキの世代が大嫌いになった。それが本心からそうなったのか、キセキが大嫌いという嘘が本心を覆ったからかは分からない。
 とにもかくにも、目的である自己暗示は完成した。
 キセキを嫌いな僕は、キセキが被害を受ければ喜ぶ。僕に嫌な思いをさせたい先輩達は、これであいつらに手を出すのを止めるだろう。
 自己暗示までする必要はないと、人は思うかもしれない。けれど人間観察が趣味のテツヤ、野生の勘がある大輝、人の表情の変化に悟い涼太、頭のいい真太郎、心の機微を感覚で理解する敦、情報のスペシャリストのさつき――この六人を騙すには、僕自身も騙すくらいしないといけない。


 きっとこんな大雑把な、洗脳と呼んでいいのか躊躇える洗脳、明日辺りにでも解けてしまうだろう。
 別にかまわない。今日の放課後まで持つならば。


 四月三十日。僕が帝光校に通う最後の日。


 あんまり意識を僕自身に留めておくと、あいつらに心が移って洗脳が解けてしまいそうだから。客観的に、第三者目線のように、物事を捉えることにしよう。



* * *



 明後日、赤司君が家の事情で転校することになりました。


 放課後のHRの終わりに、担任の言葉はクラスをどよめかせた。赤司と同じクラスの黒子は、メールでキセキに担任の言葉を伝える。
 HR終了後、突然の転校に色々と質問してくるクラスメイトを軽く交わし、赤司は教室を出ていった。慌ててついていった黒子のケータイに赤司から『体育館裏』とだけ書かれたメールが届いた。キセキへの一斉送信で。
 赤司と黒子のクラスが一番HRが長引いたのだろうか、体育館裏にはもう五色の五人が集まっていた。彼らが赤司に駆け寄ろうとするのを手で制し、赤司は彼らの前に立つ。まるで昨年、WC前に集まった時のようだ。


「転校って、しかも明後日って、どういうことです赤司君。どうして今日まで、ボクらに言ってくれなかったんです」


 最初に口火を切ったのは黒子だった。他の人間と同時に転校を知ったことが気に入らない顔をしている――それは他の五人も同じだった。
 赤司は首を傾けて五人の顔を一瞬ずつ見回した。そして心底不思議そうな顔をして口を開いた。


「教える必要なんかないだろう?」


 黒子達はそれを、「いつ教えようが引っ越す日は同じだから、教える必要がない」という意味に捉えた。必要性を説こうとした黒子が話す前に黄瀬が言葉を発す。


「過ぎちゃったこと言っても仕方ないっスね。今からでもお別れ会しましょーよ。赤司っち、どこに引っ越すんスか? I・Hでぶつかれるっスかね!」

「お別れ会なんて必要ないし、引っ越し先を教える義務も義理もないし、I・Hで会うこともないよ」


 ようやく黒子達は、自分達の主将の様子がおかしいことに気付いた。彼はこんな、優しげでいて透明な目で自分達を見ないし、自分達にこんなことを言ったりしない。
 やっと違和感を覚えた彼らをバカにするように、赤司は笑う。なのにその笑みは酷く優しかった。


「僕はもうバスケをしない。飽きたからね」


 射手座は飽きっぽいんだ、お前なら知っているだろう? ――手に木彫りの熊を持った緑間に、赤司はまっすぐ問うた。緑間の耳には、彼らの耳には、その前の言葉しか聞こえていなかった。飽きたからバスケをしない、と。その意味を理解するのに忙しくて、射手座がどうのなんて意識に届かなかった。
 嘘だ、と。反応を待つかのように黙った赤司をすがるように見上げて黒子が言った。掠れた声から、嘘だなんて思っていないことは丸分かりだった。


「君はバスケが大好きじゃないですか。飽きたなんて、嘘です、よね?」


 途中で恐れるように視線を赤司の足元に向け、最後でまた彼を見上げた黒子の表情が固まる。赤司は顔の筋肉を一つも動かさず、何か他のことを考えているような目で、退屈なように黒子の言葉が終わるのを待っていた。
 サッカー部と陸上部がグラウンドを使い出す活気が聞こえだした。


「僕は別に、バスケが好きなわけじゃない。ついでに言うと、お前達が好きなわけでもない。むしろ大嫌いだ」


 ひゅうっ、と息を飲んだのは誰だったか。赤司はそれを当ててみようと考えながら、何も言えないでいる過去の仲間に語る。


「ただ遊んでいただけだよ、僕は。十年に一人の天才五人とイレギュラー一人。六人を動かして面白いことができるかどうか、そういうゲームだ」


 桃井はただ呆然としていた。キセキの世代は赤司達五人と黒子一人で成り立つが、赤司は桃井の存在を無視したことはなかった。いつも桃井も自分達の括りに入れてくれていた。だが今彼が言った六人の中に、桃井さつきは含まれていない。


「全中三連覇することも、キセキの関係がおかしくなることも、テツヤが退部することも。高校に進学して、テツヤが物語のようにキセキのバスケを、関係を修復することも。全部が僕の動かした通りだ」

「…俺達の苦しみも、喜びも。全てお前の手の平の上だったということか?」

「そう捉えていいと思うよ、真太郎。ゲームや物語で言うと、今の僕らって、ハッピーエンドの後のただの日常だろう? そんなのは詰まらない」


 我慢して大嫌いなお前達と共にいるというのも、中々面白くはあったけれど。
 赤ちん、と紫原は大事な赤色を見下ろした。練習を頑張ったら笑って頭を撫でてくれる手が、目が、冷たく見えた。
 赤司が、綺麗に笑う。


「お前には感謝しているよ、敦。何でも僕の言うことを聞いてくれたから、ことがスムーズに進んだ。何でも僕の言うことを聞くお前に、死ねと言ってみたくて仕方なかった」


 えげつない言葉だった。
 親に捨てられた子供さながらに紫原は立ちすくむ。彼が言うなら死んでいただろう、と頭のどこかで思いながら。
 青峰の拳は固く握られ、震えていた。今にも自分達を裏切った赤司に殴りかかりたいのにそれが出来ないのは、緑間と黄瀬に押さえられているからだ。
 赤司の言葉は青峰を嘲るように続けられる。


「孤立するくらいお前を強くしたのも僕だよ、大輝。お前は僕の思い通りに独りになってさ迷って。予想通り過ぎて、少しつまらなかったかな」

「赤司てめぇ……っ」


 黄瀬と緑間が腕に力を込めた。黄瀬は敵意に近い黄色で赤司を睨む。


「オレは、人の表情とか、読むの得意っス。アンタの今までの表情は本物だった。今までは、オレ達のこともバスケも、好きだったんでしょう?」

「…過去形にしているということは、今の僕の表情が本物だってことも分かっているだろう? 涼太」

「…………」

「今までは偽っていた。けれどお前には見抜けなかった、それだけのことだ。お前ごときが見抜けるとでも思ったか? 頭が高いぞ」


 返す言葉を必死に探す黄瀬から黒子へと、赤と橙の瞳が動く。黒子は希望まみれの期待半分、どうしようもない絶望半分に、赤司を穴が開くくらいに見つめていた。
 馬鹿な子ほど可愛い、というのは嘘だな――残酷に呟かれてふらつく肩を黄瀬が支えた。


「お前の甘ったれた主張は甘すぎて吐きそうだったよ。どんなお前も嫌いだけど、バスケに関わる時のお前が一番嫌いだ、テツヤ」

「……あ、かし、くん」


 黒子の右手が肩の高さまで持ち上がる。赤司へ伸ばそうか迷うようにふらつく。そして、視線に射殺されてだらんと落ちた。
 赤司はブレザーのポケットからケータイを取り出して操作した。人と話している最中に断りなく。それはとても彼らしからぬ行動で、六人はまた、衝撃を上塗りするのだった。
 ケータイを元の場所にしまい、赤司はここに来た時とは全く違う顔の六人を一気に視界に入れ、言う。


「話は以上だ。そろそろ部活が始まる時間だろう? 早く行け」

「……赤司、君、君だって…」

「まだ言うのかテツヤ。呆れたな。僕は今朝、朝練の後に退部した。もうお前達の主将じゃないよ」


 そしてピクリとも動かない彼らに首を傾げ。


「…お前達が行かないなら、僕が行く。さよなら」


 颯爽と、教室移動をするように、体育館裏から立ち去る。そろそろ意識を自分に戻そうと考えながら、振り返らず、前だけを見て。


 だから、彼らがどんな顔をしているか、何て。


 知らなかったし、どうでもよかった。






ただの愛

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